『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

旧暦の1月3日になりました(地主神社~その1~)

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改めて、新年明けましておめでとうございます^^

一昨日、何気なく録画した清水さんの映像を見ていたら、その境内にある地主(じしゅ)神社が出てきました。

正直な話、この神社には、若い女の子達が好みそうな御守がたくさん置いてある(ある種、商売上手な?)神社、就学旅行の子達がキャーキャー言いながら恋愛祈願に行く神社…という感じで見ていました。だから、あそこまで行ったのは2~3度じゃないかなぁ…。それも、自分の意思で行ったのは、きまぐれで行った一度きりのことだと思います。ましてや、いつ行ったのかはっきりした記憶もないという、それくらい記憶も興味もない所だったんですね。

ところが、一昨日はそれを見て、ふっと思ったんです。「そういえば、どういう経緯でそこにあるんだろう」って…。

清水さんのことをあれこれ調べていても、それを知らなかったんですよね。いや。清水寺のことはずいぶん調べましたから、そのあたりに何も興味を持たなかったというのは不思議な感じがしますから、もしかしたら、さら~っと流して読んでしまっていたのかもしれません。

「ちょうど(旧暦の)新年だし、ちょっと調べてみるか」と思いつき、コーヒーを飲みながら少し見てみたら、知らないことが、出てくる、出てくる…。いや。そういえば、ここのことだったか…と思うこともありましたけどね…。

実はこの地主神社。読んで字のごとく地主(じぬし)さんのようなものだったんですね。清水寺が創建されるより前にここにあった…というより、元々はこのあたりを守る神様(主祭神は大国主命)を祭る神社としてこの神社があって、そこに清水さんができた、ということだったようです。

それができた頃は、今のように、神社は神社、寺院は寺院という形ではなく、神仏一体となってそこを守るという形で成り立っていました。ところが…。歴史の時間に習いましたよね。明治時代に施行された「廃仏毀釈」。それによって神社と寺院とに分けられ、今の形になった、と。

そういう経緯からか、元々ここを守っていたこの神社にお参りして、それから清水寺に…という流れでお参りするのが本来のお参りの仕方だと書かれているものもありました。最初は、この二つに詣でて初めてご加護をいただける…という形だったのかもしれません。

私は、その正式は…というのを知らなかったんですが、その拝殿の左手奥にある、ひとつだけ願いをかなえてくださるという「おかげ明神」とか、水かけ地蔵さんの存在さえ知りませんでした(改めて行ってみたら、ここ来た!と気がついたりして…^^;)。

そして、もう一つ。その「おかげ明神」さんの後ろにある、「祈り杉」。これですよ、ここかと思い出したのは…。これ、藁で作った人型に釘を打ち込んで誰かを呪うという、あの「丑の刻まいり」に使われた杉の木なんですって。清水さんの境内にそれがある…と聞いたことがあるのですが、「そうか、これだったか~」と最初は思ったんです。

ところが、見た中には、ここではなく、今でも清水さんの境内でやる人がいるらしい…ということも書いてあるものがありました。

やだな~。やめましょうね。人に発したいや~な気持ちは、回りまわって自分に必ず返ってきますから。回ってくるのは、いいことの方がいいでしょ…って言ったって、これからやろうとしてる人は、今これを読んだりしてないですよね…^^;。

そう思って、「そう言えば」と思い出したことがあったんですが、長くなりそうなので、この後にもう一つの記事にします…。




おかげ明神さん、お借りしてきました。