『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

二の宮めぐり~ちょっとブレイク~


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波波伎神社に行ってみて、不可思議だったこと。それは、一の宮とか二の宮って、どういう基準で決まるんだろうってことです。

 神社の縁起などが書かれたものに、「延喜式では…」と書かれているのを見た覚えがありませんか? 明治維新後、やはりこれに従って、(改めて)一の宮や二の宮が決まったというのも、どこかで見たような…。それを見た時には、ひとつのルールのようなものかと思ったような気がします。

あなたは、その「延喜式」ってやつ、ご存知でしたか? 私は他には何も知らなかったので、ちょっと調べてみたんです。どうもその辺に鍵がありそうな気がして―。

  俗に「延喜式」と呼ばれるもの。これは、「延喜年間」の西暦905年、醍醐天皇の名により編纂を始め、927年(これも延喜年間)に完成、967年から施行されたもので、全503300条にわたる神祇関係のあれこれを定めたものらしいです(ウィキペディアの延喜何年の説明がおかしかったので、西暦で買いておきます)。

  同じようなことをしたためたものはほかにもあったらしいのですが、後世に残ったのはこの「延喜式」だけだそうです。それで、「延喜式によると…」と書かれてるんですね。ネットの会話で、その話の信憑性を知るために、「ソース(論拠を表すもの)は?」とコメントされていることがあるけど、その「ソース」にあたるものだってことですね。納得です。さて、この延喜式、ウィキペディアの中では、こんな風に書かれています。

 
神祇官関係の式[編集]

8に祝詞を掲載。巻910は神名帳(神社の一覧表)となっていて、祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載されている。延喜式神名帳に記載があるのは当時朝廷から重要視された神社であり、一般に式内社と言って社格の一つとされたが、現在では消滅したり不明となっている神社も多い。

 
 …ということは、「民間の運動によって格上げ」されて伯耆二の宮となった波波伎神社は、「朝廷(あるいは国?)から重要視されていない」、あるいは、「延喜式」で認められた一の宮「倭文(しとり)神社」、二の宮「大神山神社」より、「重要度が低い」とされたということなんでしょうか。古くは「伯耆の総氏神」だったというんですけどね…。

  比較対照として、伯耆一の宮「倭文神社」について調べてみました。神社でいただけるパンフレットには、この神社は「平安時代頃、多数の神宮寺を持っていた」と書かれています(神仏習合だったころ、神社に付属する寺院や仏閣があって、それを「神宮寺」と呼んだそうです)。

  それくらい規模が大きい神社だった上に、「伯州一ノ宮大明神」と刻まれた、古い(当時の天皇の書かれた)「勅額」もたくさん残っているらしい。さらに、神領と呼ばれる神社の領地を与えられ、その管理、税の徴収などの行政権や司法権も与えられていたというんです。

 なるほどね~です。古くから一の宮であり、多くの人々に愛されてきたということもあるのでしょうが、それなりの権力や立場があった神社だってことですね。そういえばと思い出したのは、ずっと前に見た鳥取県中部の平安時代の地図に、このあたりに「東郷ノ荘」と書かれた朝廷直轄の荘園があったこと。その時、「何で? 特にすごいものがあったわけでもないだろうに」と思ったんですよね。今は伝えられていない、朝廷なりの有益な理由があったのかもしれないですね。今は、お祭りやお正月の時以外は人もまばらで、とても静かで気持ちのいい空気が漂っているってことが印象的な神社なんですが…(こんな書き方をしてるけど、好きな神社なんですよ)。

 それにしても、古は近来の人たちに愛され、多数の人が訪れただろう神社が、「現在では消滅したり不明となっている神社も多い」というのは、ちょっとさみしいですね。

 少なくとも波波伎神社は、常駐の神官さんがいらっしゃらなくても、社殿のどこかが傷ついたら、それがわからないように直されていたり、境内もそれなりにきれいにされている。できる限りは手を尽くされているということですよね。あそこの空気が暗くないのは、それでなのかなぁ。

 さて、寄り道はこれくらいにして、今度は大神山神社のお話です。と言っといて、どっかでまた寄り道するかも~