『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

秋の京都(その途中で)

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 ここでちょっと寄り道。

 聖徳太子の時代、広隆寺のある太秦(うずまさ)は、韓半島からの渡来人で聖徳太子のブレーンであった、秦河勝の所領地でした。太秦の下の字は、秦氏の「秦」から来ていて、「機」を「はた」と読むのもそれと関係があるとも言われています。

 それなら、その前にある「うず」は?というと、いろいろ説があるようですが、私がなるほど~とあっさり納得したのは、秦氏が機織や養蚕に優れた技術を持っていたことに関係する、という説です。

 お蚕さんから絹糸をいただくときにできる残骸ーまゆ玉が、そこにうず高く積まれていたことからきた地名だというのです。つまり、「秦氏が(まゆ玉を)うず高く積んでいた場所」というのが地名になったのだというんですね。確かに昔の地名というのは、案外簡単な理由でついている場合が多いんですよね。

 ちなみに、さらに寄り道すると、錦市場のある錦小路は、そうとう昔には、「く○小路(○には「そ」がはいる)」などと呼ばれていたこともあるんですって。鬼がよくそこでしていたからだというのですが、じゃ、鬼の○○○ってどんななんだろう…と、さらに脱線しそうになるのでこの話はこの辺でやめます…^^;。でも、ちょっと面白い話ですよね。

 さて話は戻って、先ほども書きましたが、秦河勝は聖徳太子のブレーンであり、かなり信頼されていた人のようです。一説には、彼は昔のキリスト教の信者であり、聖徳太子もその影響をかなり受けていたという話も(その信者となっていたという説も)あります。「人は和をもって尊しとなす」という聖徳太子の信条も、この宗教の教えに影響を受けていたからだというのです。それゆえに、太子は「仏教を国の宗教としようとしていた一派」に暗殺された、というのがその説の終わりに続きます。

 そうなのかもしれないと思う事実があります。聖徳太子から、あの弥勒菩薩を本尊として賜り、広隆寺を開いた秦河勝は、そのほかにもいくつものお寺や神社を開いていますが、太子亡き後、政治にかかわるいっさいの活動から身を引いてしまうのです。

 これはあくまでも想像ですが、戦火を逃れてきた河勝は、聖徳太子という心豊かな人と、逃れてきたこの地に「ユートピア」を築きたかったのではないか、と私は思っています。太子がそんな形で亡くなってしまった後、その身を守るためにはそうするしかなかっただろうとも。秦河勝は、一族を率いて海を渡ってきた秦一族の長なのですからー。