『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

海を渡って…

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京都の太秦にある広隆寺は、秦河勝(はたのかわかつ)という人が創建したと言われるお寺です。実は、この広隆寺だけでなく、伏見稲荷や大覚寺なども秦氏の財力をもって建てられたものなんですね(どうして、そこを挙げるかは、「あの子」の京都での動きを御存知の方にはわかりますよね?)。

その秦河勝に、以前から興味がありました。かなり前にお話した事がありましたが、渡来人だったという彼が、聖徳太子(今は厩戸皇子?)の物心両面からのブレーンだったと知ったことがきっかけでした。

その秦河勝について、今日思わぬ話を拾いました。考古学に詳しい方ならとっくの昔からお分かりのことかもしれないし、もしかしたら、学校時代に教わったのに、す~っかり忘れていたということなのかもしれないんですけど、今回知ったのは、この秦河勝の秦氏は、その文化的背景から、元々は韓半島の最南端にあった「伽耶(かや)」の、中核的な存在だったのではないかと言われてるという話なんです(一説には…ということで御理解くださいね)。

伽耶は、大きなひとつの国というのではなく、いくつかの小さな国々の寄り集まりがそう呼ばれたらしいんですけど、鉄の製品を作るのに優れた文化を持っていたようです。一族郎党引き連れて日本にやってきたという秦氏は、たとえ伽耶の民でなかったとしても、ほかの渡来人たちがそうだったように、やはりそこから日本に渡ってきたんです。たぶん、例の弥勒菩薩も、そこからやってきたのでしょう。

話はすこしずれますが、この伽耶、とおい昔歴史の時間に『任那日本府(みまなにほんふ)』というのが置かれていたと教わった場所です。ただし今は、その当時できたばかりだった大和政権に、海を隔てた国に日本の統治機関を作る力はまだなかっただろうということで、そういうものではなくて、地理的にも日本に一番近いここに、橋渡しをする何だかの機関があったのではないか、という程度の話になっているんだそうですよ。

さて、話は秦氏に戻ります。この秦氏、実はそのルーツがはっきりしません。その国に元々いたのではなく(そうであればあるはずの、元々この国の民だったという記録がまったく存在しないのだそうです)、中国の方からやってきた「やんごとなき方」の子孫だという話があったり、シルクロードを通ってやってきた西の国の人たちだ…とかいう話があったりします。かなり謎の存在のようなんですが、その西の方からやってきたという説に、ちょっと引っかかったんです。

その秦氏(もしくは、おんなじように西方から来た人たち)の西方説に、ふっと「あの子」が重なりました。かつて、「ダビデ像のよう」と評された写真がありましたが、もしそうだとしたら、当たり前よね、と思ったんです。だって、その国の王なんですから、ダビデは…。そういう顔立ちは、そこでは特別でもなんでもないでしょう(像を美しく作ってあるとしても…)…って、今の「あの子」とそれを比べるのは強引ですけどね…(余談ですが、その国の言葉に当てはめると、「カヤ」とは、「命と希望」を意味するんだそうです)。

「あの子」の書いた「韓国の美をたどる旅」の「国立博物館」の章に、こんな一節があります。

『僕はどうしてこんなに伽耶文化に惹かれるんだろう? 前世は伽耶人だったようだ』

それに対して、「高句麗人だったけど、伽耶の女性に惚れたんでしょう」と言われたと書いていますが、彼は更にこう言います。

『……そうだろうか』

遠い昔、海を渡り損ねたか?(爆)。それはともかく、ちょっとおもしろい一致ではありました。




(画像、これでしたっけ?…^^;)