「遣日使」かぁ…

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ぜんぜん関係ないことで、思わぬことを拾う…。よくあることですが、今日も思わぬ話を拾いました。それは、「遣日使」にまつわる話です…。何だ、それ…って思ったでしょ? 私は思いました。だって、私たちが学校で教わったのは、「遣唐使」とか「遣随使」とかいう、日本→唐(あるいは、随)で、教わりに行くという形だけだったでしょ?
 
 実は、そういう言葉があるというわけではなく、「遣唐使」とか「遣随使」という言い方があるのなら、「遣日使」という言い方があっていいじゃないか…という意味での造語のようなんですが、その中に、奈良時代に、日本にいらした鑑真さんというお坊さんの話があったんですね。
 
 今の中国から日本に渡ろうとしたものの、気象条件などもあって5回も失敗。やっと渡って来られたときには、残念ながら目が見えなくなっていらした。そこまでがんばって布教をしに来られた立派な人です…っていうようなことで、歴史の時間には教わった気がします。それに対して、疑問を投げかけている文章があったんです。その行為に、ではありません。鑑真さんが布教の為だけのためにそこまでしたのだろうかということに、です…。
 
 これまで、そんなことを考えてみたこともありませんでした。それを見ることがなければ、今でもそうでしょう。でも、そう言われてみればそうなんですよね。もちろん立派な方なのでしょう。でも、どんなに立派な方でも、偉い方に請われたのだとしても、これだけ困難なのに、何故来たかったのか…。何か、日本でなければならない事情があったからじゃないか…。
 
 そのときは、まだ仏教は日本に入っていなかったから、その布教に来られたんだ…なんて、漠然と思っていました。ところがね、考えてみれば、仏教って聖徳太子の頃に入ってきてたんですよね。聖徳太子はすでに国の政策に取り入れていた。あったんですよ、仏教はもうすでに日本人の心に…。
 
 まっ、別の宗派(?)だとかいう理由があるとしても、もう仏教と神道を持つことで安定していた日本に、どうしてもそれを持って来る必要はないですよね…。いや。そういう国だから来たかったのかもしれない。そんな国ってほかにないもん…。そんなことも思いました。
 
 実は、宋の記録には、「日本の絹は、中国の絹の品質を遙かに越えたものだ」…と書いてあるのがあるし、唐の頃には、「日本の紙は絹そっくりで、光沢もあって書きやすいうえに、とってもきれい」とか書いてあるのもあるし、「日本刀さいこ~!」って、北宋の人は書いている。同じ北宋の人は、日本の扇のことも絶賛しているようなんです。
 
 そして、万葉集があるように、日本独自の詩歌もすでにあった。時代は違うとしても、ゴッホがあこがれた浮世絵などの基本もあったかも…なんて考えていくと、その頃の日本には、すでに、それだけのレベルの文化があったんだってことがわかってきます。教えを請うだけの地ではなかったんです。あとで調べてみると、金や銀の精製もしていたみたいです。それも、海の向こうより遙かに精度の高いものを。そんなこと知らなかった…。
 
 それでは、「遣唐使などは何をしに行っていたの?」ということになりますよね。書かれているものでわかるのは、あちらにしかない書物を写したり、購入できる書物の買い付けをする…というものです。更なるおべんきょのためですね。「遣日使」も献上品とともに、書物をたくさんもってきてくださったようなんですが…(日本からはそれに対して、絹や綿の織物をお返しに差し上げたそうですよ)。
 
 ところで、「遣日使」は、今の中国の人達ばかりではなかったんですって。インドやベトナムやイラン系の僧の人たちも、日本の仏教を学びに来ていた(!)そうだし、もちろん距離的にいちばん近い国の、新羅…渤海…などからも「遣日使」は来ていた。それどころか、ほんとは中国などより多く来ていたんだそうです…。
 
日本は、その頃すでに文化を発信する側だったんです。調べてみると、実は「遣日使」は、私たちが知らないわりに、「遣唐使」とか「遣随使」よりも人も船の数も圧倒的に多く、そうやって来た人達はたいてい日本に帰化したんだそうです(もちろん、強制的にそうしたわけじゃありません)。奈良の都に住んでいた人の1/3は帰化人だったんだって。言ってみたら、国際都市ですよね。これも、ち~っとも知らなんだ。その頃の日本が、海の向こうから来た人たちが住みたいと思うくらい、暮らしやすい所だった…ということなのかもしれません。
 
クリスマスイブのイベント(だけ)を楽しんで、除夜の鐘を聞いて、元旦には神社にお参りする。こんな節操のない国はないよね~って思ってたんだけど、考えてみれば、それができる国ってすごいのかもしれない…。宗教の違いで戦争まで起こる…。そういうのを、テレビの中でだけど、私たちはたくさん見ていますよね。ところが、それが海を渡ってきて以来、何寺の焼き討ちとかって、ちょっと極端なことはあったとしても、それぞれが今でもちゃんと穏やかに並び立っているんですね…(まっ、時にとんでもないのが現れたりもしますが…)。
 
海を渡ってやってきたすべてを受け止め、穏やかに昇華させて、比類ないただひとつのものにする。それが日本なのかもしれない。そんなことを思いました。これって、誇っていいことですよね?
 
ちなみに、あちらに行った日本人たちは、帰れなくなった人を除いて、みんなこちらに帰ってきたそうですよ。私たちが知っている小野妹子が日本に帰るときには、32隻もの大船団がついてきたそうです。何と、そのときのお供には、裴世清という人がいたそうで…。この人も帰化したんでしょうね。この名字。ちょっと違うんだけど、その字に、「おっ!」と思ったんでおまけに書いてみました。