『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

二の宮まいり~また寄り道~

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  鳥取県は、「江戸時代風」に言うと、県の東側、全体の半分近くの「因幡(いなば)」と、残りの半分あまりの「伯耆(ほうき)」とに分かれます。昨日お話した、「伯耆富士(ほうきふじ)」と呼ばれたりもする山、「大山(だいせん)」は、当然ながらこの「伯耆」にある山ですし、皆様ご存知(?)の神話「因幡の白兎」の舞台の白兎(はくと)海岸は、やはり「因幡」にあるんですよね。そうそう。因幡は、因州とも呼ばれたようなんですが、浅草の雷門の大提灯に使われている和紙は因州和紙だそう。因州和紙は、因幡の「青谷(あおや)」でつくられているんですよ。


 …なんて話をしていて、ふっと思いだしたのでさらに寄り道。


  ヤマタノオロチ伝説って、ご存知ですよね? やたらに暴れて田畑を荒らし、人々を困らせていたヤマタノオロチ。みんなを困らせない代わりに、美しい娘を次から次に捧げものに要求するヤマタノオロチをスサノオさんが成敗し、娘さんを助けるってお話なんですが…(で、結局自分の嫁にする)。あのお話ね、何故か地元であるはずの「出雲国風土記」には描かれず、伯耆国の風土記にはあるらしいんですね。不思議ですよね。何で「出雲国風土記」に書かれてないんだろう。


  不思議といえば、昨日お話した、伯耆二の宮の一つ「波波伎(ははき)神社」ってどういうとこかと調べていて知ったことなのですが、アマテラスさんが、地上を平定したオオクニヌシさんに対して、「そこはこれからはこちらで治めるから、私に譲りなさい」と、使いを送って要求してきた時(この一連の出来事は、「国譲り」とよばれていますね)、「息子に相談してみます」と応えた父オオクニヌシさん(地上を平定した神様にしては、えらく他人本願)に相談され、「いいんじゃない?」と応えたとされ、めっぽう平和主義者(?)のように描かれている、息子コトシロヌシさん(エビスさんと同一視する場合もある)。その荒魂(あらみたま)が、創建時期がわからないくらい古いこの「波波伎神社」に鎮まっていると書かれていたんですね。


 …


  荒魂というのは、とてつもなく活性化されていて、その強い力で願いを強力にバックアップしてくださると言われる魂だけれど、その魂を鎮めないと、場合によっては天変地異を起こし暴れまわることさえあるとも言われる、荒ぶる魂のことを言いますよね? 

 だからこそ、脛に傷もつというか、ある意味で「その荒魂を持つ人」を陥れた人たちが、その「仕返し」を恐れて神社を建てたりする。たとえば、足利尊氏が後醍醐天皇の荒ぶる魂を恐れて京都の天竜寺を作ったように。菅原道真公の荒魂を恐れたことで、天満宮がつくられたように


  でも、究極のお人よしのように描かれているコトシロヌシさんの荒魂を、なぜわざわざ鎮めようとしたんだろう。そういう人の魂を、何で恐れたんだろう。それも、何故それを出雲ではなく伯耆に鎮めた

 そして改めて思ったのは、たとえば、「その時代の出雲に、そんな巨大な社がつくれたわけはない。絵空事だ」と、歴史学者の方たちが馬鹿にしていた(?)文書に書かれていた通りの場所から、大社のかつての遺構が、それも絵空事だと言われていた文書に書かれていた通りに発見されたということもあるように、今「これがホント」と言われている文書には、やはり歴史はそのままに書かれているわけじゃないんだなということ。

 ホントはコトシロヌシさん、御しやすいお人よしさん(神様だけど)ではなかったんじゃないかしら。それどころか、「怒らせるととヤバイ」人(神様だけど)だったのかも。そりゃ、お父様と一緒に必死で平定してきたこの地上を、いきなりやってきて、「こっちで治めるから渡せ」っていうのはあんまりですもんね。ええ。怒って当然ですよ。いや、知らんけど…。


  そう言えば、伯耆一の宮には、オオクニヌシさんの娘さん(コトシロヌシさんの異母きょうだいにあたる)、シタテルヒメさんがいらっしゃるんですよね。この方も、どうして伯耆に、それも「波波伎神社」からそう遠くない場所に、出雲からひとっ飛びにいらっしゃったんでしょうね(海路だけど)。説明のつかないなことがいっぱいあります。「まっ、神話だからね」と言われてしまえばそれまでなんですけど。