二の宮めぐり~さらに寄り道に迷いこむ~

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伯耆二の宮の一つ、波波伎(ははき)神社。それは、オオクニヌシさんの息子さんのコトシロヌシさんの荒魂が鎮まっている所…というのは、この前の記事で書きました。それ以外でわかったこの神社のことを、ちょっとまとめてみますね(私なりにだけど)。

 

 伯耆二の宮・波波伎神社:

 スタジイやタブの木などの巨木がある原生林に囲まれている。自生の椿も多い。主祭神は、コトシロヌシさん。この方の荒魂が鎮まった時が創建となるようだけど、それ以上の詳しい年月などはわからない。ただ、出雲王朝が隆盛を極め、やがて消えていったのは、弥生時代といわれているので、その時期だろうとは思う。

  明治10年(1877)に再建された社の裏を少しだけ進んだところに、「福庭(ふくば)古墳」がある。横穴式石室、墳丘は直径35メートル、高さ4メートルの円墳。古墳のあるところに社を作ったのかと思ったが、この古墳は古墳時代の終末のころにつくられたものだそうだから、神社創建の弥生時代より、相当後のものということになる。神社との関連は不明。

  で、ここでまたちょっと話はずれるのですが、弥生時代で思い出したこと。この時代って、大陸から渡ってきた渡来人によってイネがもたらされ、日本に稲作が始まった…って、学校で教えられませんでしたか? あれね、違うみたい。最近、大陸や日本で発見されているイネの化石(といっていいのか?)の遺伝子などの解析で、大陸で見つかるものより、日本の方がかなり古いということがわかってきたようなんです。

 大陸でイネが作られ始めたといわれる時期と、あちらで見つかっているその化石ができた時期は符合する。ところが、日本ではそれより古いのがある。つまり、それより早く稲作が行われていた…。となると、それ、どこから来たんだろう。もしかして、元々あった? 少なくとも、大陸のじゃないということになりますよね~。
 
 ついでに、もう一つ腑に落ちないでいることをいうと、私ね~、縄文時代の話も怪しいなと思っているんですよね。(大陸よりずっと文化が遅れていて)日本では素焼きの土器しかつくれなかった…と、いかに情けない国だったかというように義務教育時代に学んだんだけど、その土器には縄の模様がつけられていたわけでしょ? たとえ、他の道具を使わず、ただ縄を押し付けてつけた模様だったとしても、稲のだか何のだかわからないけれど、日本には縄を編む技術がそのころすでにあったということですよね。

 縄は何のために編まれるのでしょう。撚り合わせることで、一本よりも強度が増すから…ですよね? 長くもできるし…。それは何に使うの? 何かを束ねたり、束ねた物を運んだりするために使うんですよね? 

  つまり、その頃の日本人は、その辺に自生してるものや、その辺を走ってる動物をとっ捕まえて、生で、時には焼いて食べてるだけの人たちでは、すでになかった。ものを作り、運べる人たちだったってことです。それって、亀の甲羅に字を書いたりするのと同等、あるいは、人の毎日の生活を楽に、豊かにするという点ではそれより高等な文化のように思うのは私だけかなぁ。

 新たなことが発見されていくことで、歴史は刻々変わっていく。それはわかるんだけど、子供ながらに何となく感じていた違和感が、その頃の偉い先生方には感じられなかった…なんてわけはないでしょうが~!と思っちゃうんですよね。ちゃんと教えてよね。…なんてことを、学校の頃にはそこまで思わなかったし、言えもしなかったので、今ここでちょっと毒づいてみました

 さてさて、寄り道ばっかりしてますが、次の記事では、ちゃんと波波伎神社のお話に戻りますね~