少しずつ読み進んでいるこの本。物語以外は、3色ペン(ラインを消せるフリクションタイプ)片手に本を読んでいく私にとって、たくさんラインを引いているという点では、一番か二番目に入ると思います。
この本での語りはとても簡潔で、とてもわかりやすいです。そうして、私にとって(多分多くの方にとっても)読みやすいテンポの本でもあります。その分、とても素直な気持ちで読めるんですが、その中に、「自分が買った本。どうしようと自分の自由」というような話が出てきます。
私は、上で書いたようにラインを引きながら読んでいくので、仕事に関係する本にしろ、そうでない本にしろ、ほんとに数のないような貴重な本は図書館で借りてそのまま読むとしても、それ以外は買って読むことになります。
その本がどんなに、読んでいくのが重かったり、合わなかったりしても、買った本だし…と、途中眠くなって頭がグラングランしたとしても、最後まで読み切っていました。ところが、外山先生は、それをやめちまえと言われるんですね(もちろん、言葉はそんな荒っぽいものではないけど)。時間の無駄だというわけです。放り出してから、どうして読み切れなかったのかを考えればいい、と(私の場合は、途中からキツくなる本はわかっています。そうとう自分のテンポと違っているか、読んではみたものの、生理的に…という意味でも、まったく理解できない場合です)。
「ものしりにはなるかもしれないが、嫌なものを読んでも得るものは少ない」。 「身銭を切って買った本。どうしようと自由である」。この文に、目からうろこがポロ~ン。「そうだ。投げ出したっていいんだ」。これに気が付けたことは大きかったです。
考えてみれば、そういう本を読み切るのは、私にとって、ほとんど義務でした。それもかなり辛い義務…。買ったものだから、無駄にしてはいけないっていうのと、その本への敬意で…かな…。それを「身銭を切って買った本。どうしようと自由」と言い切ってもらった爽快さ。これは、私にはない発想でした。
元々本は、知りたいから、もしくは、楽しいから読んでいたはずだった。そう思えないものに、いつまでも義理立てすることはない。途中でも、「ありがとね」…で終わればいいんだ。それより、もっとやることがある。もっと知りたいことを、そして、楽しいと思えることをやり、そして、そう思えるものを読んだらいいんだ。「これを読んでくれ」と依頼された、書評家でもなんでもないんだから。そう思えたんです。
そして、もしかしたら私は、本のことだけじゃなく、あっちこっちで、こんな風に自分を縛って、体重重くしてた…じゃない。心を固く重くしていたのかもしれないと、ふっと思ったりもしして…。一節で、ここまで思わせる。恐るべし、「乱読のセレンディピティ」。
「これを読みながら、興味ある次のものを読み…。そういうことだってあっていい」というような内容の箇所にふれてから、色々寄り道しながら、これを読み進めています。