この画像は出雲大社ですが、大社(おおやしろ)とは直接関係したお話ではありません。いや…。関係しているのかも…
まず、お伺いします。お宅には神棚がありますか?(うちには、3社タイプの神棚があります)。で、扉はありますか?ある場合、扉はどんな風になってます?
実は、母と、神棚のお祀りの仕方が、母の実家とわが家とは相当違う…という話をしていて、「いったいどっちが正しいんだろう」という話になったんですね。母の実家は、母の様に心臓の弁が…なんて人は代々親戚筋にも一人もいない。どうして自分だけという気持ちがあって、「それが関係しているのではないか」…と言うんです…。私が思ったのは、「それは関係ないんじゃないか。仏教でも、それこそ、茶道でも華道でも、その宗派(あるいは、流派)によって違うんだから、それを敬ってお祀りさせてもらう気持ちさえあれば、お祀りの仕方はそれぞれでいいんじゃない?」ということだったんですが、一応、「まっ、ちょっと調べてみるわ」ということにしたんですね。
今思えば、元々母は、「そう言っとけば、そういうことになるだろう(調べてみるわというに決まっている。で、いろいろ調べて何かいい方法を探すだろう)」というたくらみのもとに言い出したような気もするんだけど、とりあえず、合間あいまに調べてみたんです。で、やっぱりいくつかやり方があるようで、「その中で自分が一番ピンとくる方法でいいんじゃないか。そう信じて、一生懸命お祀りしてくれる人がかわいくない神様はいないんだから」というお話が、それこそ、私にはいちばんピンと来ました。
ところが、たまたま前に母が買っていた本のなかに、「えっ ほんとですか」という内容があったんです。読んでないんでしょうか、あの人(母)は…。それともしっかり忘れているのか…。
さて、神棚をお持ちて、扉がある方にもう一度お伺いします。扉、どうなってます? うちの扉は、お掃除した時と、3が日以外はずっと閉まったままなんです。
その本によると、それって、神様の通路を自分で閉じたようなものだ…というんですね。「どうぞ、叶えてたたもれ~」と言って、そのツールとなるお札を収めておきながら、「はいはい。わかりました。行ってかなえてあげましょ」と腰を上げていってみたら、扉を閉めたままにして、中に(外に、か?)入れやしない。「何だよ、冷やかしか~」…と、こんな風になっているというんですね。これ、その、ピンと来た…という感じだったんです。
実は、それ、ずっと引っかかっていたんです。閉めるの? 開けるの?…って。 出雲大社の神在祭の時、神々のホテルの扉は開かれていたんですね(御簾は下りているんだけど)。「…ということは、開けとかないと、神様、出はいりできないんじゃない?」と思ったときから…(大体、子供のころから、すぐ擬人化する癖があるんです、わたし…)。
「やっぱりだよ閉じ込めてるんだ」
ええ、すぐ開けましたよ。ただし、少しだけ…(方法として書かれていたのは、扉がある場合、全開は良く無いということだったので…)。まだ、改善点はいくつもあるんだけど、それは段々とやっていこうと思います…。これでいいと、ピンとくる形になるまで…。
話は少しずれますが、母がそんなことを言い出したのには、あることが原因だったんだろうなぁと思います。実は、母の実家は、何かをかなえたいことがあるとき、そのことに関わる所にお参りすると、最短でひと月、長くても3か月以内で、必ずかなうんです。何で、そんなことが実現するの?ってことまで…。だから、「ずっと家内安全と、身体健康を願ってきたのに、何で私だけ心臓の弁が? 良くはなったけど、何で手術?」…という想いが手術してから、ずっとあったんでしょうね。おまけに、娘は……(自粛)。
そう言えば、母の実家の神棚には、扉がなかったなぁ…。