先回マイケル・ジャクソンの、『THIS IS IT』のDVDを買ったという話をしました。映画を見た友達をはじめとして、見た人が異口同音に言うのは、「すごいアーティストだったんだよね~。もったいないよね」っていうことば。
ほんとに、改めて彼の「真実」を思い知らされた感じです。彼は表現者なんだから、その「板の上」の彼がいちばん評価されるべきなのに、彼がなくなるまでの間、その評価はずっと違うところでされていた気がします。そして、人は彼を「過去の人」扱いにしていた…。彼が行おうとしていたコンサートについても、「果たしてちゃんとできるかどうか怪しい」とした報道さえ見ました。それが…、どうです?
年末、一連の裁判にも触れた特別番組を見ました。少年がそのまま大人になってしまった人で、現実の生活の中で適応できなかった部分はあったとしても、あそこまでの、性格破綻者のようにいわれる人ではなかったということは理解できました。裁判についても、裁判員制度での判決だったから無罪になったという風に報道していたのを見ましたが、残された証拠でいえば、まったくのシロだったとしか言いようのない裁判だったことも理解できました。
そのあとで、親兄弟じゃなくても、彼を庇護し、上手に支えていける人はなかったんだろうかと思ったり、逆に、その孤高さゆえに彼だったのかもと思ったりはしましたが、ふつふつと沸いてきたのは、最初にあんなにセンセーショナルに裁判や彼の逮捕について報道したマスコミは、何故その後のホローをちゃんとしてこなかったんだろうという疑問です。
完璧な人などいない。あげつらえば、何か見つかるでしょう。それを言われるのは、立場上まだある程度は仕方ないのかもしれない。でも、なかったことをあったと言ったままで終わるとしたら、でっち上げで裁判を起こした原告とまったく同じではないかしら、と思ったんです。そのイメージが人々の中に延々と残り、彼のある意味でのマイナスの部分を増幅して見せてしまう。私にも、その音楽を愛してはいても、そういう風に見ていた部分はあった気がします。だからこそ、そういう報道の中でも彼を信じ続け、「マイケル最高!」といい続けたファンの存在をすごいと思うんですよね、改めて…。
不愉快なのは、彼がなくなるまであれほど叩き続けていたマスコミが、同じ口で一転して礼賛に走り、いかに彼がすごい表現者だったかを語り始めたこと。でも、それによって見えてきた真実があり、その商売根性のおかげで、今こんなDVDを見せてもらえている…。すごい矛盾ですよね…。
そして最後に思うのは、「板の上の彼」(CDなどを含めて)をこれからも楽しませてもらおう、ということ。それが表現者マイケル・ジャクソンに対しての、一番の供養…というのは仏教的ですかね?