父の日によせて(その1)

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 昨日は、「父の日」でしたね。みなさん、お父さん孝行されましたか? 私にとっては、本人のいない、初めての「父の日」でした。4月のはじめに、父が亡くなりったからです。緩和ケア病棟での穏やかな最期でした。肺がんでした。

 去年父が入院していたことは、ここを良く訪ねてくださる方はご存知かもしれません。そのときは、薬との相性が良かったのか、「このまま順調に行けば患部が消滅する可能性がある。消滅しなくても、月に3日ほどの点滴での化学的治療を受ければ、数年は普通の生活ができるだろう…」というお話だったのですが…。これから、そういう風な家族を抱える方もあるかもしれないし、自身が…という方もあるかもしれない。そんな方の参考に、そして自分自身のためにも、少し長くなるかもしれませんが、父の話をしたいと思います。

 父には肺に持病がありました。鉄鋼関係の会社に勤務していた関係で、職業病の認定を受けていたのです。ただ、父が現場で作業していた時期は短く、会社生活のほとんどは管理職としてデスクワークをしていたのですから、ヘビースモーカーだった父自体に問題があった…というのが家族の見方だったんですけどね。

 2年前。その、定年後も続いていた年に一度の検診の時に、肺にそれまでと違う異常が見つかりました。検査入院を普通以上に何回も繰り返したのですが、はっきり「悪性のもの」であるという結論は出ませんでした。おかしい箇所があるなら、さっさと取り出して病理検査にまわせばいいようなものなのですが、肺に問題があるということで、先生が手術をためらわれたのです。

 それでも、やはりそのままにしておかない方がいいということで、丹念な体のチェックを受けたあと、一番負担のない形ということで、内視鏡での手術を受けることになりました。ところが、いざ手術にかかろうとされた時、患部の真下に太い血管があり、内視鏡での手術は大量出血につながりかねないということがわかり、急遽切開しての手術となりました。

 結果として、その患部は先生が疑っておられた「悪性」のものではなかったのですが、もともとは切り取るはずではなかった部分から、「小細胞ガン」が発見されたんです。そのガンは、わかりやすく言うなら、体中を回遊しながら、取り付く場所を探している、ある意味「実体のない」ガンなんですね。ですから、問題がある父の肺に取り付くのは時間の問題でした。

 先生は、すぐに化学的治療を勧められたのですが、父はそれを拒否しました。父の友人や知り合いの中にも、化学的治療を受けられた方があるのですが、父いわく、「その治療はつらいらしく、その後も、みんなまるで生気のない生活をしている。自分はそうなりたくないんだ」と言うのです。

 父は、会社を定年退職した後、「これからは土ととも生きるんだ!」と、親戚がやめられた農園まで借りて、農業の真似事をやっていました。儲けようという目的ではないので、自分が作ってみたいものを手当たり次第に作り、農作業ができない時期は、好きな本を読んだり、JRの『青春18きっぷ』で、10日~2週間くらいの気ままな一人旅に出掛ける…というのが、父の楽しみだったのです。読書以外は、そのすべてができなくなるかもしれないというのが、何より辛かったのだと思います。

 父がそういう選択をしたことに、家族は納得しました。…というより、言い出したら聞かないことを知っていたんです。でも、化学的治療をしないということは、そう遠くない将来に、「その時」が来るかもしれないということ。まだそばで見る限り父は元気で、こちらとしてもあまり緊迫感がなかったことも手伝って、私は父に「では、これからどうしたいのか」と問いました。

 父は、化学的治療はやはり受けたくはないが、どうしてもしなければならないとしたら、自分のこれまでのことを知って下さっている、今の病院にお世話になりたい。さらにそれができないとなれは…」と、ある本を出してきました。「肺がん患者のケアブック」。自分の肺にそのガンが取り付くだろうと思っていたこともあって、まるで教科書のように毎日読んでいた本です。その中に「緩和ケア」の記述がありました。

 「死ぬことは恐くない。ただ、苦しむのは嫌だ。その痛みや辛さを和らげてくれる所らしい。このあたりにはこの緩和ケアというのはないかなぁ…」と父は聞きました。実はその頃、父の話を聞いた私の友達が、その緩和ケア病棟でご家族を看取っていて、私に、「選択肢の一つとして行ってみてはどうか?」と、そこの見学に行くことを勧めてくれていた所だったのです。

 そのことを話すと、父は最後はそこに入れてくれるように」と話し、自分のお葬式に使うようにと、50代の時にパスポートのために撮った写真を持ち出してきました。「ちょっと若いか? これ、いい男にうつっていて、一番好きな写真なんだ」。そう言って、父は笑いました。そして、「この病気は、最後は自分がわからなくなるらしい。今話したようにしてくれ。頼んだぞ」と続けたんです。

 父と私だけの、初めての約束でした。