いつもと違う様子に父に付き添っていったのですが、先生からのお話は、「今の状態は風邪のための症状。ただ、私がご本人に話していることをご家族はご存じないのではないですか。化学的治療をなさらないのなら、最悪の場合、夏は越せないかもしれないですよ」。
それでも父は、まだ決めかねていました。というか、自分で決められない状態だったんですね。私はその場で、化学的治療を即決。一つ目の決断でした。
点滴での化学的治療を始めてみると、父には副作用がほとんど…というよりまったく出ませんでした。髪はそのまま、吐き気などもなく、むしろ食欲がでて、患部もどんどん小さくなっていったんです。「こんなことなら、早くやっておくんだった」と父が漏らしたのは、その頃のことです。自宅に帰っても、いつもどおりの生活をしていましたしね。
ただ、それも長くはありませんでした。去年の終わり。その患部の縮小が止まってしまったんです。薬が効かなくなった…と言うことですね。薬を換えていただいても状態は変わらず、その上に、頭部とリンパにも転移が認められて、新たな治療。そのときになって、父に認知症の症状が出てしまい、治療継続は無理という結論が出ました。
先生から家族に話されたのは、友達から見学を進められていた病院の緩和ケアへの転院の相談でした。偶然(?)にも、その病棟の管理者であり、副院長でもある先生が、父の主治医の先生のもとの同僚だったんです。そのご縁で、入院まで数ヶ月間はあちこちの病院をジプシーのように回りながら待たなければいけないというその病棟に、すぐに入院することが決まりました。
実は、父の兄弟たちは、父が通っていた、うちから距離のある所にある病院で治療を受けていたことを、快く思っていませんでした。治らないなら、近くの病院で…というのです。でも、父も家族もまだあきらめてはいませんでしたから、それを聞く耳を持たなかったんですね。もちろん、父の意志だったということが、一番の理由でしたし。
叔父達には不満が募っていたようで、うちから近いその緩和ケアへの転院が決まって以来、かなりの当てこすりというか、容赦ない言葉が相次ぐようになっていました(聞き苦しい話ですが、実はこれ、ポイントなので書いておきますね)。
そして、2月の雪の朝。父は、介護タクシーで転院することになったんです。
(画像は、転院した朝の風景)