『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

霧の向こうは、どんな景色?

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kirinomorinofuukei



 
 昨年秋の腕のけが以来、もうひとつ集中力に欠ける日々がつづいています。思うように動けない時期が長かったせいなのかなぁ。もちろん、コロナウイルスのあれこれで、予定が荒れに荒れたと言うこともあるのですが、いい加減しゃんとしたいんだけどね。

 そんな中で、まだちゃんとは頭の中で整理できていないんだけど、「あれっ?」と思ったことがあったので、とりあえず書いておきたいと思います(忘れそうだから…^^;)。


 それは、どんな話かと言うと、広い意味で歴史の話なんです。それも、大昔の…。


 ずいぶん前、ヤフーブログのころに、「日本の文化財保護のために、連合国側は京都奈良への爆撃を行わなかった」と学校で教わったことが大嘘だった(次の原爆の候補地の先頭に、京都の名前が上がっていた)ということを知ってから、学校などでこういうことだと教えられてきた歴史が信じられなくなったというようなことを書いたことがありました。その頃から読んで下さっている方の中には、覚えてくださっている方があるでしょうか。

 そして、そういう流れの一つで、魚をとったり、けものを狩って、ただ焼いただけで食べていたと教えられた縄文人は、その場でとった魚やけものを食べるだけの人たちにしては、縄文式土器と言われる器に、縄の跡をつけるということをやっている。縄は何かを運ぶために草などの強度を増すために作るわけで、それはそれでけっこうな文化を持っていたのではないか…なんてこともお話したこともありました。今回も、同じような「?」で一つ気が付いたことがあったんです。


 さて、縄文時代に続く弥生時代になって、大陸や半島からやってきた多くの渡来人によって稲を作る技術が伝えられ、日本の稲作のもととなった…と教えたことはありませんでしたか? でも、遺伝子について知ることができるようになった今では、それではちょっとおかしなことになるみたいなんですね。


 その①その時代に伝えられたはずなのに、それ以前の時代の稲の化石といえるようなものが、日本では発見されている。そして、その同じ時代のものは、渡来したといわれている所や他地域では発見されていない。

 その②大勢の渡来人が日本にやって来た割には、日本人の遺伝子は、それ以前とそう変わりがない(らしい)。さらに、渡来したとされている地域に住む人の遺伝子にはないものが日本人にはある。つまり、それほどその地域から多くの人が流入してきたとは思われない。「それは、どうして?」。ソファに寝っ転がって思いました。


 そういえば、日本から遠く離れた所に、日本人と同じ遺伝子を持つ人達がいて(日本とそこの二か所の人にしかない遺伝子がある)、さらに、やはり遠く離れた所に、言葉や神社に関わるあれこれが重なるところがあるそうな。その人たちが謎の渡来人で、その上今の日本の文化のもとを作ってきた人達なのかしら‥。

 いや。それなら、遺伝子の件はどうなる? 今わかっている遺伝子の話では、多くの日本人の遺伝子を換えるほどの人は入ってきていないということになる。それに、遠く離れたところに、何故同じ遺伝子を持った人たちがいるのかしら。そして、すぐそばにはその遺伝子をもつ人達がいないのは何故? 世界の二ヶ所だけの突然変異?


 その時、ふっと思ったんです。渡来人がいるなら、もしかして渡‥、渡‥。何と言っていいいのかわからない! とにかく、こっちからあっちへ行った人もいたんじゃないの⁈ って…。


 現在に残されているもので言えば、世界で一番早く稲作を始めたことになるらしい日本人。さらに、ものを運ぶことのできる縄を使うような文化をとんでもなく古くからちゃんと持っていた日本人なら、あっちに行っても何とかやっていけたんじゃないかしら。

弥生文化を作ったことにされている渡来人というのがその人達なら、たくさんの渡来人がやってきたはずなのに、遺伝子がそうか変わっていないということについても説明はできる。やって来たのではなく、もともと日本にいた人達が「帰って来た」のなら、それは当然のことだもの。

 いや。それより、何故その人たちは西へ行き、戻ってきたのか‥。それが、わからない。もちろん、この考えがとんでもない見当違いということともあるんだけど。


 そのあたり、さらに進むだろうこれからのいろんな発見や研究でわかってくるでしょうか。とにかく私の考えられるのはここまでだわ…と起き上がり、アイスコーヒーをグビリとやった私なのでした。