『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

本は面白い。でも、めんどくさい~片付けエトセトラ~

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 この前ちょっとお話したように、ここ数日、またあれこれ片付けてました(途中、夏日じゃなく薫風の吹く日には、母が家庭菜園に植えるきゅうりとか茄子とかの苗を買いに行ったり、花壇や玄関先や、裏庭の花たちをちょっといじったりもしていたんだけど)。

 実は、まだ終わってないんですよね。ここからはボチボチやっていこうかと思っているんだけど、いちばん引っ掛かってるのは、書棚。理屈でいえば、全部本を出して、書棚を拭いて…。もういいかと思う本は処分に回して、後は納めればいい…ってことなんですが、これが、なかなかね~。

 ほら、試験前に雑誌とか本とか片付けようとして、ついつい読んじゃったりしたことありませんか? ああいうのに、近いとこもあるかもしれない。これ、どうしようって思って開いてみて…ってね。

 別の部分で言えば、私は断捨離関係の本を何冊か読んだんだけど、私に本気で片づけをしようと思わせてLくれたのは、、カレン・キングストンという方の、『ガラクタを捨てれば自分が見える』という本だったんですね(ついでに言えば、またいつのまにかあれこれ溜るんですけど)。で、何度か書棚の掃除をしても大事に置いておいたその文庫本を、今回はなぜか手放していいかなという気持ちになっている…。 面白い変化だなぁって思うんです。もちろん、ずっと大事にしていて、今もそう感じている本もあるんだけどね。

 前に何回か触れたことのある、『乱読のセレンディピティ』という本にあるように、忘れたつもりでも何かを感じた本は自分の血となり肉となって記憶のどこかにあるからもう手放していい…ということなのかしらね。掃除するたびに、これから読みたい本や読み返したい本、そして、ずっと大事にしていこうと思ってた本を選んで書棚に戻していたはずなのに、ずっと置いとこうと思ってたその本に熱意を感じなくなってるなんて、それまではなかったこと。不思議な感じがしました。去年からスタンバイしてる本もあるけど、それもまたよし。とにかく、本棚にはいい空気が漂っていてほしいんですね。

 別の発見もありました。先日、アガサ・クリステイの「アクロイド殺し』が、舞台を日本に移してドラマ化されていたのを見て、久しぶりに持っていたその原作を読もうと思ってたんですね。ところが、ずっと開いてなかったその文庫本を久しぶりに開いてみたら、とんでもなく変色してるじゃないですか

 「そりゃそうだなぁ。学校の夏休みに、お小遣い全部つぎ込んであれこれ揃えて読みまくった時の本だから、当然古い経年変化ってやつよね~」と思ったんだけど、同じころに手に入れて今もある単行本は、多少古びてはいるものの、ちゃんとしてるんです。当たり前だけど、違うんですよね、紙が…。

 やっぱり、文庫本は長期保存には向かないのかな…。しょうがないから、好きだったお話は買いなおしていくことにしました。今あるのは、製本セットでハードカバーに仕立て直していたもので、そういう思い入れもあったんですけどね~。ありゃ、どう考えても読めないわ。というか、読む気が失せる。そして、これも書棚の空気をよどませてるのかも。

 そうそう。話は少しずれるけど、文庫本といえば、その頃の(いつのだ)文庫本と、今の文庫本の違いに気づきましたよ。そのころのは…、もちろん作品それぞれで違うのかもしれないけど、何冊か見てみた最近のに比べて、ぎっしりと活字が込み合ってるの。今のは、行間などがそのころのより広くとってあるように感じます。変わらないようでも、その時代で変わってきているのかもしれませんね。

 本の片づけはややこしい






※画像は、裏庭にある、修学院離宮で順路に落っこちていた種から育ったモミジ。130cmくらいだけど、今年はとても早くから、それも茂りまくってます。今年の気候でですかね~。