『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

宜保さんの守護霊のお話 その3

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 さて、守護霊さんは、どうしてこちらにいる誰かを守ってくれようとするんでしょうか。
 
本を読んでいくと、この前書いたように、自分がし残した夢を果たしてもらいたいとかいう目的で、その夢に最もふさわしい人の応援をしてあげることも例外としてあるようだけど、彼らにはまず、近しい「誰か」を守ってあげたい、「誰か」の状況を良くしてあげたいという想いがあるように思えます。
 
守護霊さんと、守られる人はギブ&テイクの関係だと宜保さんは書いてらっしゃいましたが、宜保さんが言われているのは、私が思うようなドライな(?)ギブ&テイクではない感じ。彼らが選んだ「誰か」が、自分が(場合によっては、自分たちが)守ってあげることで幸せになり、それに感謝して誠心誠意の供養をしてくれる。その想いに喜び、さらに良くしてあげようとする。そういうことを繰り返すうちに、彼らはさらにパワーを増していく。つまり、もっと力強く応援して行けるようになる。そのために供養がほしい…。そういう意味でのギブ&テイク。
 
心清らにして供養する⇒ついてくれる⇒さらに供養する⇒守ってくれる⇒感謝し、供養する⇒うれしくて、もっと守ってくれる⇒同じ気持ちで供養する⇒パワーアップして、さらに守ってくれる…∞
 
そこにあるのは、「愛」だけ。成仏した…とはそういうことなのかもしれないなぁ…と思いました。
 
成仏した霊があるとしたら、成仏していない、あるいは、できていない霊もある。宜保さんは、そこにも触れています。よく心霊番組で触れられるのはこれですよね。自分がなくなったことにも気づかず、さ迷い歩いている浮遊霊。ある特定の場所にいついてしまった地縛霊。そして、あちらに行って、いちばんつらいという自殺霊などです。
 
 そういう霊に取り憑かれる…とかいうことを聞くけれど、この場合もやはり、取り憑かれる側との、合う合わないがあるそうです。それから、そういう霊にラブコールされないためには、人を傷つけないための嘘くらいはつくことがあっても、人を殺めたり、傷つけたり、陥れたりせず、真っ当に生きていること。そして、先祖にお水やお線香をあげ、合掌することだと、宜保さんは言います。
 
浮遊霊というのは、そう怖がることはない。その土地に強い怒り恨みを持って居ついてしまっている地縛霊は強力だけれど、「あそこは出る」なんて話のある所に面白がって出はいりしなければ、そう恐れることはない。もちろん、感じやすい人はいるわけで、あちらもわかってくれる人につきたいと思ったりするのでしょうが、「供養サイクル」のような生き方をしている人には守護霊さんという霊的ボディガードがすでについていますから、とんでもないことにはなりにくい。そういうひとが何か感じてしまったら、心から手を合わせてあげる。そうすれば、そんな人のところには長居しない…という図式ですね。
 
  このあたりに関して書いてある中に、ああそうかと思ったことが二つありました。一つは、人を守るにも、人にたたるにも、霊には途方もないエネルギーが必要だという話。悪い霊にしても、強いエネルギーで守っている霊のあるような人や、恨みの本筋でないような人には、ひどい悪さをしないということなんですね。そんな人に対して、エネルギーを使っても、疲れるだけですから。その代り、恨みの張本人に対してはとんでもないそうです。そうかもしれませんね。そのために成仏できずにいるんですからね(そういうことにならないためにも、真っ当に生きたいですね)。
 
 もう一つは、自殺霊についてです。真っ当に生きている人にとって、いちばん引っかかってくるのはこれかもしれないというようなことを書いてらっしゃいます。苦しみから逃れようとして自ら命を絶った方は、あちらでは更に一人で苦しむことになるのだそうです。寂しくて、つらくて、仲間を探してしまう…。この世にいる人の中に、ね。
 
もし、家族や親族や知人にそういう亡くなり方をされた方があったら、やはりこれも、しばらくの間、守護霊さんに対するように、お水とお線香をあげて、「早くご成仏してくださいね」と合掌してあげるといい。そうすることで、こちらも難から逃れることができるし、あちらは、心から手を合わせてもらうことで、成仏への道を上がることができる…。これも、考えようによっては、ギブ&テイクかもしれませんね。哀しい愛ですが…。いえ。良くなるための愛…ですよね。