久しぶりに、長めに歩きました。自分の体調の様子見がてらに…。歩きだしてみると、歩き出すまでには気づかなかった体調の良さとか悪さに気が付くことがあるので、どうかなぁと思っていたんですけど、案外何のことはなくて、ちょっと安心しました(と、夏の間さぼり気味だったツケをごまかし、なかったことにする)。まっ、それはいいとして…。
夜、テレビで何回目かの『のど自慢・ザ・ワールド』を見ました。今回はかなりレベルの高い回だったのではないかしら。言葉はもちろん音のとらえ方も。「ああ。なんと完璧」とため息ついたことか…。その中で、ちょっとだけ気になったことがありました。これは私の感じ方なので、そう思われない方もあると思いますと前置きしてお話するんですが、その中で、尾崎豊さんの『オー・マイ・リトル・ガール』が登場したんですね。歌は完璧でした。ちゃんとその方の歌になっていた。ただ、その分なんか違うと心が言うんです。
なんか違う…。それは、何かとっても歌がおおらかだと感じたからだったんですね。尾崎豊という人の歌は何曲が聞いたことがあるくらいで、熱狂的なファンだったというわけではなかったんだけど、彼の歌には、独特な「刹那」からくる哀愁があった気がするんです。その歌詞にもね。言ってみれば、尾崎豊さんのは、行き場を失った二人…という感じで、今日歌われたのは、「貧しいけど、二人いれば幸せでしょ?」的な感じに聞こえたんですね。
もちろんそれが悪いわけじゃないんです。その人その人の解釈があっていいのが歌だと思うから。ただ、私は尾崎さんのほうのが好きだというだけ…。そこで、ふっと思いだしたんです。前に、ユーチューブでご本人が探せなくて、K君でアップした『糸』。ご本家の中島みゆきさんと、カバーをしている、クリス・ハートさんにも、同じ感じがしたことを。
クリス・ハートさんは、安定感のある歌が歌える人です。そして、本当に暖かい歌を歌える人だと思う。けれど、ご本家やK君に感じるものが、彼の歌からは聞こえてこない。縦の糸と横の糸が出会うまでの葛藤さえも歌って見せるのが、みゆきさんの『糸』だとしたら、クリスさんの『糸』は、出会ってからさらに二人でよくなろうね…ってそっからの想いが歌われてている感じがしたんですね。出会うまでの葛藤があるから、出会えたことがうれしい。そして、だからこそ、誰かを温めうるかもしれない…というところまでは、クリスさんの歌には感じられない…。
さっきの、『オー・マイ・リトル・ガール』と同じで、哀愁を感じないというか…。もしかしたら、日本人とそうでない人の感性の違いもあるのでしょうか。でも、それをかなりに歌って見せる人もいるしなぁ。
やっと見つけたご本家 中島みゆきさんの『糸』
んで、クリス・ハートさんの『糸』
まっ、好き好きですかね…。
話がちょっとずれますが、演歌好きだった入院中の父に、かねがねうまいなぁと言ってた天童よしみさんの曲をドスンと買って、イヤホンででもCDラジカセで聴けるようにもっていってあげていた時の事。ここで書いたことがあるかもしれないんだけど、病床の父が何の脈絡もなく言ったんです。「天童よしみの『人生の並木道』には…」って。聞き取れなかったので、 「何?」と聞くと、父が答えました。
「哀愁がないんだ。天童よしみの『人生の並木道』には…」
「あ……哀愁…」
一瞬口ごもり、私は爆笑。政治のことを語ることの多い父の口から、哀愁という言葉が出てくるとは思わなかったんです。本人、心外な顔をしていましたね。確かに、旧制中学のころ、短歌では知られた存在だったという父ですから(本人からは聞いたことはなく、父の旧友談ですが)、そういう感性があってもおかしくはないのかもしれないですけど、つい、ねそういう、変なところにこだわるところは、血筋なのかもしれません。