『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

思い続けられる理由

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昨日今日と、テレビで流れてるのは、Mさんの降板騒動。それを一回だけ通して見て、ふ~んと思った私…。

「彼を見守っていく」だの、「彼のこれからを思うと…」だの、息子さんのこれからについては案じて語られたようだけど、被害にあいそうになった(財布を取られたという点では、あわれた?)方に対しては、頭を下げて謝れとまでは言わないけど、一言もないのか…と思ったり、ご自分自身に非難が集まってることについては、すべてが「30過ぎて所帯を持っている息子のことで、(自分がこういう存在だから)親がここまでいわれてしまう」世論のせいなのか…と、かなり斜め目線(上からじゃなく)で見ていました。

親子の事件がらみでは、少し前に、Rさんのお父さんの問題がありましたよね。確か、国際指名手配ではなかったかと…。でも、それに関連して、彼女にひどい言葉を浴びせたり、番組降りろとかいうバッシングはなかったですよね。この違いはどこから来ているのでしょうね?

番組内での取り扱いにも、これがMさんでなかったら、コメンテーターの人たちはこんな風に言っただろうか…とか、いいことなのか悪いことなのか、どうもマスコミの言うことをまともには信じなくなっている自分を感じます。

それはいつからだろうと振り返ってみると、もちろん、あの大震災のころから、マスコミどころか政府さえ信じられないという状態があった…というのが決定的でしたけど、やはり、前にも触れたことがあったけれど、「あの子」に関してのあれこれをネットで拾うようになってからだと思います。

この前、いつものようにPCである言葉を検索している途中に、見つけた言葉がありました。「ヨン様のファンは、○流ファンとしては異質。その息の長さだけではなく、歴史についても勉強していて、嫌○・呆○率も高い」…という某サイトの話です。

そんな統計をとったという話を聞いたことはありませんし、ほんとのことはわかりませんが、少なくとも、マスコミの話は半分以下に聞く、自分が体験したり調べたりしている中で、納得できることを信じる…という習慣はついているかもしれません。

「あの子」はこの国の俳優ではありません。それも後の人たちとは違って、スポンサーも宣伝も一切なく(逆に、足を引っ張る人はいたような…)、いわば、たった一人で海を渡ってきた状態だったので、最初のうち、彼の話題に触れることは、テレビや雑誌では多くありませんでした。自分がPCを使って、いろんな情報を探さないと得られなかった。その結果、その内容を段々自分で精査できるようになっていったのは事実かもしれません。

さらに、その精査した情報や実際に自分が体験していることと、マスコミで面白おかしく伝えられることの間に違和感を感じたり、あちらのエンターテイメントのニュースと実際との間には、かなりの隔たりがあるとも感じ始めました。そして、特にあちらでは、真実を伝えるというより、記者自身が、こうあるべきだ、こうあってほしいという…記事というより創作に満ちたものが、エンターテインメントだけでなく、全体に多いということも気づき始めました。

それと違ったとき、その人に対して沸き起こる騒動は尋常ではありません(ただ、これはMさんの場合とは違います)。あの「四月の雪」の記者会見の辺りからのバッシングのこと―。そのあとの、内容をきちんと理解しようとするでもなく、言葉尻だけをとらえて、こちらでも彼をこうだと決めつける人がありました…。何度かの妨害による公式サイトの閉鎖…というのもあった…。そういう中で、段々と、「ちゃんと相手側からも物事を見ることができる」本人以外は、信じられないということを感じてきているようにも思います。

どんなに叩かれても、結果的に彼は変わらなかった。それは、私たち(あえて、たち)には十分に了解できるもので、そして、十分にあたたかかった。つまり、一時頭に血が上っていたわけでなく、いえ、ずっと上り続けられるわけもなく、そう判断できることが十分にあった。そういうことなんです。それと後の人たちを一緒にして○流と言われるのは、とても違和感があるんですよね。一緒にしてほしくないとさえ思う。その想いは、かかわりない人から見たら、あららと思われるかもしれないけれど、こちらからの…プライドでもある気がします(…といえるほど立派なものか?…^^;)。それはもしかしたら、彼にとっては残念なことかもしれませんけどね…。これはもう仕方ない。そう思うんだから…。

そうそう。魅力的な演技や姿を見せつづけてくれている(そして、新たに見せてくれるだろう)人だってこと。これは、当然のこととしてね。

なんて、今日は「私たち」じゃない方に向けて書いてみました。