『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

父の命日

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 昨日は父の3回目の命日でした。今年は何回忌の法要とかいうのもないので、特にあわただしいことはなかったのですが、前日からお墓に供える花や父の好きだった食材などを買い集めて、仏壇にあれこれ作ってお供えしたり、お墓参りをしたりしたんです。

 我が家は曹洞宗ですが、私は宗教に熱心なわけではないので、一応毎日仏壇に手をあわせたり(これはもう習慣というやつです)、珈琲やお茶をお供えしたりという程度のことをするくらい(そうそう。般若心経というのにえらく興味があって、時折仏壇の前にすわって、お経を上げてみる…ということもあります)ですから、これからの命日のほとんどは、「ああ。そんなにたったんだ」ということを振り返る日になるのかもしれません。今回は、「父が生きていたら、この未曾有の震災をどう見てどう言うだろう」ということを思う命日でした。

 実は不思議なことに、昨日からえらくやる気なんです。あれこれの大片づけを時折やることはありますが、父の調子が悪くなってからは、以前のようにしょっちゅうケーキを作ったりすることは、何か気が重く、なくなっていましたし、料理をあれこれ作ってみようという意欲もあまりわかなかったんです。

 ところが、昨日からしっかりと隅々までお風呂掃除をしたり、ケーキを作ったり、チャーシューを焼いてみたり…。そういうことが普通にやれているのに気が付いて、自分で驚いたんです(昨年から続けているびわのお茶のおかげもあったかも)。それだけ時がたったということなのかもしれません。逆に言うと、それだけ時間が必要だった…ということかもしれません。

 父は病気でなくなりました。急変して…という部分はありますが、2年ほど前からわずかな異常は言われていましたし、何度も検査入院していまし、万が一の時にはこうしてほしいなんて話もしていましたから、それなりに心の準備はありました。それで3年かかったということは、例え御家族の方がお元気でも、今度の災害で被害者となられた方の心の回復には長い時間がかかるでしょう。さらに、大切な御家族をなくされた方のことを思うと想像もつきません。

 これからの父の命日には、その日に近い時期に起こったこの災害のことをあわせて思い、手を合わせることになるのかもしれません。