『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

二の宮めぐり~大神山神社とは?~

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お借りした画像です

 
伯耆二の宮大神山(おおがみやま)神社奥宮。これがどういう歴史を持つところなのかのお話です。

  この神社は、中国地方の最高峰・大山(だいせん。海抜1711m)の中腹(海抜998m)にあります。ただ、中腹とはいっても、この入り口のだいぶ手前の方に駐車場があり、そのあたりまでは、便数が少ないながらも路線バスが行き来しているので、歩く距離としてはそうたいしたこともないというか、「脚力のある人」にとっては、普通なら(!)そう問題ない所だと思います。さらに、奥宮というくらいですから、本社(ほんやしろ)もあるんだけど、ここよりもかなり里にありるんですね(元々は、この奥宮だけだったみたいです)。

  さて、神社のある場所は「大山」なのに、なぜ大神山神社なのか。これはありがちな話です。出雲国風土記にも「大神岳」という名で登場するこの山は、岳=山であることから、「大神山」とも呼ばれ、平安時代頃に「神」が取れて「大山」と呼ばれるようになったらしいんです。つまり、神社のあった場所がその名前になっているんですね(でも、何故に「だいせん」に?)。

  日本では普通のことですが、霊山とも言われるこの大山は、山自体が神様とされていました。主祭神は、大己貴神。若い時のオオクニヌシさんですね。平安時代頃、その大山に修験者が集まるようになり、修験場(とはいっても、簡素なものだったようです)を、今の奥宮のあるあたりに作った。それがこの神社の始まりのようです。

  エラい誰それさんが寄進して、いつの何月何日に創建されました…というのではないため、創建日時がはっきりしないみたいなんですね。昨年は大山開山から1300年の記念の年ということでしたから、まっ、ざっと見て1300年ってとこかね…ということなのだと思うのですが、はっきりと1300年だという記録があったというのをご存知の方があれば、教えてくださいね。

 この大山の中腹に建てられた簡素な施設は、時を追うごとに大きくなっていき、平安時代には、きちんと神社の形が整えられるまでになります。神仏習合の(神社も寺院もごっちゃ混ぜというか、同じところで、二つの役割をしていた)時期のこと。前にお話した伯耆一の宮の倭文(しとり)神社と同じで、この神社にもお寺があり、お坊さんもいて、平安時代後期には3180坊、3000人の僧兵がいたといいます。

 その頃には一般の人も、大山頂上を目の当たりにできるこの神社を、その遥拝所として訪れるようになるのですが、この神社、何せ雪が半端ない。1m以上積もることも珍しくないので、里にその遥拝所の遥拝所が作られました。それが(位置は少し変わっているようですが)、今の本社(一時は、寺院の力に押され、本社の方に勢力を移したこともあるよう)。

 やがて時は明治時代となり、神仏分離の政策のもとに、寺院は「大山寺」という寺院となり、神社の方は、「大神山神社奥宮」となって、伯耆二の宮と改めて認められた…。そういうことのようです。

 ところで、この大山には、あっちこっちにある、「烏天狗」がいたという伝説があります。村の人たちとのあれこれのやり取りが伝説として残っているようなんですが、かっこうからして修験者をモデルにしてるんですかね。なんか、霊山にはふさわしい(?)存在のように思えます




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