前回の記事の続きです。前回は、神様というのは、元々はとてつもない苦しみや悲しみを経験している人たちで、後世の人たちが同じ苦しみ・哀しみを味合わないように力添えをするのが使命なんだ…というお話でした(と、「例の本」に書かれている)。その内容に関して、触れておきたいことがあります。
それは、地元の神様と仲良くなっておくというのは基本なので、それをしといて…というのが前提となるのでしょうが、何かの願いがあるとき、そのことでしんどい想いをした方が祭神になっていらっしゃる神社をお参りするといいということです。これ、特に大事なことでもないというか、大抵そうやってらっしゃると思うんですけどね。願いをかなえたいなら、「縁結びを願う人は縁結びで有名な神社に行きなさい」ってことですよね。
ただ、それも、そのことについての「成功例が多い所」を訪れるといいと著者は言います。神社のパワーと言うのは、人の願いの集合体だから、パソコンで言うなら、例えば「良縁が欲しい」と願った想いたちは「良縁ホルダ」に収まり、そこに集まった同じ想いが願いをかなえる大きなパワーになる…ってことらしいんですね。何百年、もしかしたら1000年単位で前からの「良縁ほしいパワー」が力になって、「良縁あったパワー」に変わって保存されている」と。となれば、歴史が古く、「あそこは、ご利益がある」って言われているところは、おすすめ!ってことなんでしょうかね。その神社とこちらとの相性もあると思うんだけど…。
話はちょっとずれますが、この、神社との相性っていうのは確かにあると私は思っているんです。何がいいとか悪いとかじゃなく、単純に相性…。このあたりのことは、私の思い込みかもしれないし、成果があったわけでもないし、言葉ではうまく説明できないんで、もどかしいんですけどね。
以前ここで書いたことがあったんだけど、京都の某神社に行った時、その神社の鳥居をくぐる寸前にやみそうもなかった大雨が突然止み、お参りを終えるころには雲が薄くなり、境内の片隅にあった休憩所にしばらくぼ~っと座っていた時には青空さえ見えていたのに、その神社を出て、そこからすぐのバス停に向かうと、思いがけずすぐにバスが来て、乗った途端に大雨復活…なんてことがあったんですね。ところが私の知り合いは、とてもわかりやすいところにあるその神社に、どうしても行けないのだと言うんです。出張の途中に行こうとしたら、寄る時間がなくなる…。バスに乗ろうとすると、乗るバスを間違える…。歩いて行っても、道を間違える(私みたいな、おっちょこちょいとは違う、ちゃんとした人なんですけどね)。今回、「やっと来られた」と思ったら、嫌われている…と言わないまでも、何か歓迎されてないような感じがしたと言うんです。
ということになると、私はその神社に歓迎されていたのか…。そんなことは、わかりません。私も仕事の途中で行ったんだけど、むしろ時間が余るくらいで、さらに、雨が都合よく降ったりやんだりしたから、そのあと何か奇跡のようなことが起こったか…といえば、特に何もない(もしかしたら、何もないのがご利益だったりするのかもしれないけど)。だから、多分私はその神社と相性が良かった…ってことなんだろうな…と思ったんです。
ただ、そういう相性っていうのは、御神徳にあったお願いをすることと同様に、大事なんじゃないか…というのは、頭の片隅にあるんですよね。ほんとのことはわかりませんけど。御神徳も相性もいい神社…。多分、「行きたい!」と思って、すっと行けるところ…。まっ、「hikariが、そんなたわけたことを言っとったわい(爺さんか…)」とでも思っといてください。
そうそう。この本のタイトル、「成功している人は、なぜ神社に行くのか?」に、直接関係することなのですが、↑に書いた、「自分の願いにあった御神徳で有名な神社に行く」と言うこととともに、行くべき神社について、著者は、現存する政治家さんの成功例を書いています。
たとえば、政治家Aさんは、自分のルーツであると思われる神社に足を運び続けることで日本の流れさえ変え、別の政治家A’さんは(どっちもAさんだぁ!)、自分の祖先の敵だった方の神社にお参りすることで、そこからわずか数日で要職を得ることができた…というんです。
自分のルーツにつながる神社や、自分の祖先と敵対した方の神社にお参りする(その勢力との縁を結ぶ)ことで「神ネット」を強化した人が、成功するんだってことですね。さて、私のルーツは……なんて、そんなことに想いを馳せることは、諸願成就だけじゃなく、先祖供養になる気がしますよね。
さて、行きたい、行くべき神社が見つかりましたか? この次は、ようやく神社の鳥居の前まで進みます。