『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

神様の使命~目指せ!成功(?)その5

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 前回の記事の続きです。今回は、地元神社と仲良くしたら、「さて、どこに行きましょ」って話。
 
 神様は、人の口から雑誌やテレビ、ネットの波にも乗って、来てほしいという広報活動をされると、『成功している人は、なぜ神社に行くのか』の著者は言います。もちろん、「あの~。こんなとこなんですけど~」と、自らパンフレットと手土産の一つも持って、広告代理店回りをされるわけじゃありませんから、何かしらこちらに印象付けて、語らせたり、そういう特集をするように仕向ける…と言うことなんでしょうけど…。で、そのプランに引っ掛かっちゃった人が、いそいそとその神社に足を運ぶことになる…(悪いことじゃないけど…)。


 実は、誰しもこういうことを経験してるんじゃないかなぁと思います。探してるわけでもないのに、同じ神社の登場する番組を続けてみたり、突然人からそこに(あるいは、そのあたりに)誘われたり…。そういうこと、ありませんか? 私も時々そういうことに遭遇するので何でかしらと思っていたんだけど、まさか神様に「おいでおいで」されているなんてね…。まっ、引っ掛かりやすい奴なんでしょうね。偽の投資話や「振り込め詐欺」に気をつけなきゃ(って、その前に、引っ掛かるような大金など用意できませんが…)。

 人の口や、テレビや雑誌ではなくても、「何となくあそこに行ってみたいなぁ」と突然思ったとか、出かけた先で、通りがかりにふと寄ってみたくなった…なんてのも、もしかしたら神様の広報のたまものだったりするのかもしれませんね。


 まっ、それはともかく、そんなこんなで神社参りした(する)とき、その神社の歴史やご祭神を知ることは、大事だと著者は言います。とはいっても、しっかり勉強してから行けとかいうことではなく、神社に行くと、由緒などを書いた立て札(というのか?)があるでしょ? あれをちゃんと読みなさいよってことらしいんですけど。


 読んで、「なるほど。ここは相当古い時代から、そういういきさつでここにあるんだな」とか、「ご祭神は、誰それさんなんだ」とか、「ここは、そういうご神徳(ご利益とも言いますね)があるとこなんだ」とか知っときなさいよね、ということ…。


 ここでのいちばんの注意点。それは、その神社の「ご神徳」というやつを知ることなんだそうです。このご神徳には、そこのご祭神の「使命」が関わっているから―。


 神様というのは、とんでもない「挫折」や「後悔」(場合によっては、とてつもない恨みなんかも)を抱えて神様になっている。何より、まずそれを知ることだ、と言うんです。ご祭神の使命は、その事柄について後世の人を応援することだから、それをわかってお参りするなら(それについての願いをもっていくなら)、その大いなる助けになってくれるだろう…と言うわけですね。まっ、胃の調子が悪いのに、鼻炎の薬を飲んでも悪いとこには効かないですもんね。「ちゃんと胃薬飲みなさいよね」ってことですかね(こんなたとえをすると、罰が当たるかなぁ…)。


 自分が壊れてしまうんじゃないかと思うほど、つらく苦しい想いをしたのなら、「誰が人の応援なんかしてやるものか」と、私のようなちっちゃい奴は思いそうだけど、神様はそこを超えて、それを使命としているってことなんですね。たとえば、菅原道真さんは、良く学んで、仕事でも認められた人なのに、陥れられて左遷され、果ては都に帰りたいという願いもかなわず、都から遠く離れて非業の死を迎えた人。その人が、その最初のきっかけになった「学業」の神様となっているように…。


 実は、ちょっと話はずれますが、以前から疑問に思っていたことがあったんです。ずっと前に、ここでも触れたことがあったと思うんですが、京都の野宮神社のことです。縁結びの神社とも言われるここは、伊勢神宮に斎王(神宮の神様に仕え、祭司を執り行う巫女さんのような存在)に選ばれた未婚の女性皇族さんが、俗世と離れ、身を清めるための施設があったところです。


 この斎王は、占いで選ばれます。選ばれてしまったら、拒否権はありません。それどころか、結婚が翌日に決まっていようが容赦はありません。「私は明日結婚しますし、もとより、都を離れとうございません」とか言っても、「何言ってんの~。神宮の神様に仕えることができるなんて、誰でもできることじゃないのよ。あなた、女として最高の名誉よ~。すんごくラッキーじゃないの。うらやましいわ」とか散々乗せられて愛する人と引き離され、その人にとっては行きたくもない、それもいつ帰れるかわからない、海外留学に放り出されるようなものです。それが、うれしいわけはない。


 そう。任期は不定期なんです。天皇の崩御や譲位、親の死でもない限りは都には帰れない。若い未婚の皇女が、記録に残る者で言えば、平均で10年未満、最長なら33年という長い間、俗世を離れて過ごすんです。伊勢で亡くなる人もいたかもしれないし、無事に任期を終えて帰っても、浦島太郎のようなもの。ワクワクの時は過ぎ、結婚も望めないかもしれない…。都で愛し合っていた人がいても、彼はもう待ってはいないでしょう…(待っていてくれたとしても、平均寿命からすれば、あまりに長いとあの世の人になってらっしゃるかもしれないし…)。


 まして、伊勢に向けて旅立つときは、天皇から、「都の方を向き給うことなかれ」とかいう言葉とともに、特別な櫛をいただくのだとか。いつ帰れるかわからない上に、都の方向さえ向くなだなんて(都でのことを考えるな、って意味でしょうね)、そんなの、あなた。ひどすぎるでしょ。つらいだけの旅立ちじゃないですか。だから、「その人たち(の想い)が、縁結びの神になるわけない」と思っていたんです。でも、この著者の言うように、神様というもの自体が、苦しくつらい想いをした人たちで、そのことについて、「自分のような想いをしないように」と助けるのを使命としているということなら理解できます。

 神様は、こんな背景を持ちながら、いまを生きる私たちの「スキマ」に「幸せになりな~」弾を突っ込んでくださってるんですかね。それを思うと、ちょっと切ない。そして、僭越(せんえつ)ながら、その神様がいとおしいとしくさえ思えます。そして、その想いをちゃんと受け止めようって気になってきます。

 そうか…。こんな気持ちになるってことが、神様の思うつぼなのかも…







画像は、伊勢神宮の宇治橋の前の鳥居(名前はなんだっけ…)。