『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

因幡の里のお姫様

イメージ 1

 
以前コメント欄でちょっとお話しましたが、先日友達に誘われてある山里に出かけました。その途中、寄った場所があったんです。鳥取市河原(かわはら)町にある、「賣沼(めぬま)神社」。元々は、「八上(やがみ)賣沼神社」とされていた所です。


 鳥取で「八上」という名前…。神話好きのかたなら、「おやっ?」とひらめくかもしれません。その通り!(多分)。ここに祀られているのは八上姫。「因幡の白兎」で、出雲の八十神たちが、嫁にするためにわざわざ因幡まで訪れたという、絶世の美女のお姫様です。


 ただし、彼らはそれを望んだものの、結局彼女は、彼らが荷物持ちにした弟神、オオクニヌシさんを選びます。そして二人は、彼女が生まれたといわれるこの場所で、しばらくの時を過ごしたと言われているんです。その場所を訪れたんです。


  そのお話をする前に、そのあとの二人はどうなったかご存知ですか? よほどの神話好きの方でないかぎり、ご存知ではないんじゃないでしょうか(実は私もそうでした)。熱い時を過ごし、一足先に出雲に帰ったオオクニヌシさんを八上姫が追いかけていく…ということになるのですが、彼女はその時すでに新しい命を宿していました。ところが、そんな体で出雲まで行ってみると、何とオオクニヌシさんにはお妃がいるじゃないですか!


 お妃がいらしたのを知らなかったんですねぇ、彼女。思わず、「神話時代のベッ○○か!」と突っ込みを入れたくなるような話です(一夫多妻制ですから問題はないんですけどね)。一説には15人の妻があったといわれるオオクニヌシさん。そのためか、お妃さまは狂気を帯びるくらいのやきもち焼きで、恐れをなした八上姫は生まれた子供を木の股に挟み、因幡に逃げ帰っていった…という話になっています。


 ところがね、ちょっと変なんですよ。八上姫という人は、あちこちに知れわたるほどの絶世の美女だったということだけを言われていますが、一般に語られていないところで言えば(こちらに残る史実に寄れば)、自らの人生を積極的に切り開いていくタイプの人のようなんです。


 まず、夫を自らが選んでいますよね。相手に選ばれるのを待つのではなく。これは神話でも語られています。そして、出雲での話はとよくわかりませんが(残されていないので)、出雲を離れ、地元の因幡に帰った彼女は、元々そのあたりの長(おさ)の家の生まれでもあり、自らそこの長として、一生独り身のまま立派にこの地を取りまとめ、発展させた…という記録があるんです。自らが夫を選び、長として、時には太刀さえ持ってそこを守ったこともあるという美丈夫。

 そんな人が、たとえ狂気をはらんでいたとしても、ずっとオオクニヌシさんのそばにいたいと思ったのなら、お妃さんにビビって逃げ帰るでしょうか(そのお妃さんの嫉妬深さも、都合よく話を変えられているのかもしれません。そんな人じゃなかったかもね)。

 そこには、神話が書かれた時代に権力を持っていた人の、彼女を貶めたい意志があったように思えてきます。生まれた子供を木の股に挟んで逃げ帰ったというのもね、違うんじゃないかと思う。それくらいの地位にある人が、子供を自分で育てないのは普通のこと。誰かに預けて帰ったんじゃないかと思うけど、「最低な女だったんだよ、八上姫っていうのは…」ってしたいたいがために、それを利用されたんじゃないか…と思ったりします。


 大体、自分は長として立たなければならないと自覚していたとしたら、元々ずっと出雲にいるつもりではなかったんじゃないか…とも思えますよね。それなら何故出雲に行ったか…。やっぱり、オオクニヌシさんへの想いだったんだろうなぁ…(と勝手に遠い目)。


 時代は、事実を脚色します。あったことがあったように…ではなく、「誰か」にとって、「こうあったら都合がいい」という形に書き換えられる。これは、今の新聞やテレビのニュースでも全く同じ。出来事以外の「予想」や「誰それがこう言った」という記述は200%くらい信用できないということを、私は「あの子」がらみでしっかり学びました(その頃は、頭が大混乱したなぁ)。SMA○騒動なんかもそうですね。そういうやり方で人を操作しようというたくらみは、神話のころからあったんだなぁと思います。


 ただね、彼女はそれでも、オオクニヌシさんを愛したことを後悔してなかったんじゃないかしら。それからの生涯を一人で生きぬいたことからしても、ね。そんなことからか、ここは縁結びの神様だったりもします。