『光と風の間(はざま)で』総本家

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新月の願い~概要編~

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 さて、前記事の続きです。
まず、ご存知の方はたくさんあると思うのですが、御存じでない方のために、「新月の願い」っていうのがどういうものなのか、私のわかる範囲で説明しますね。

 この「新月の願い」は、10年以上前に、アメリカの占星術研究家・ジャン・スピラーという方が広められた、新月の日に叶えたいことを書くと、願いがかなう…という、ある意味、「おまじない」的な要素もある内容なんです(この「おまじない」という言い方にカチンときた方もあると思いますが、そのことについては、また後ほど…)。

  大昔から「新月に物事を始めるとうまくいく」と言われるようですが(たとえば、新月に種をまくと良く育つ…とかいうのは今でも言われますね)、その力を利用して願いをかなえようというものなんですね。書く=願い始め…ってことですかね。

 上に、10年ぐらい前…と書きましたが、実は新月に願いをかけるというのは新しいものではなくて、2000年以上前から行われていたことのようです。で、1000年以上前の人は、「(多分とんでもなく偉い人でもという意味で)王様でさえ、新月には願いをかなえてくれるだろう(それくらい新月には力がある)」…ってなことを書いてるんです。それがずっと続いてきてるってことは、そうそういい加減なものでもなさそうですよね。

 なのに、「何故おまじないなんて言い方をするのか」って怒る方があるかもしれないですね。もっとちゃんとしたものだと…。ですが、そのちゃんとしたものだろうが、人によっては子供だましだといわれる方もあるだろうおまじないだろうが、効くも効かないも、その人の想い次第だと思うんです。「その人の想いにブレがなければ、願いはかなう」と私は思っています。人の想いはそれくらいすごいものだと。でも、それをちょっとでも疑う気持ちがあれば、願いはかなわない。いや。疑っているんだから、別の意味では「かなっている」と言えるのかな…。

 こう思うようになったのは、実は父の死が関係しているんです。闘病していた父にもう打つ手はないと言われた時、周りの人がみんなあきらめている中で、私は、「まだ方法はある」と思っていたんです。その時は父も戦う気でいたので、科学的治療以外の方法を寝ずに探したこともありました。探していたのは、もちろんその方法なんですが、生還された方の書かれたものを読んでいるうちに、気づいたことがありました。それは、末期がんから生還された方には、ある特徴があるということでした。その方たちは、「完治することを疑っていらっしゃらなかった」。そう感じられたんです。

 自分の生死がかかったことに、揺れない人はないと思います。私だって相当に怪しいです。でも、「それを乗り越えて、その境地に達した方だけが、治療法はそれぞれ違っていても生還できるんじゃないか」。それが私の結論でした。残念ながら、父はそこまで強い人ではありませんでしたし、そのことに私が気が付いた時はもう、父はそういう話を理解できなくなってもいたんですけど。その時の経験が、私にそう思わせてくれたんです。とはいうものの、そうはっきり思えるようになったのは、ここ1~2年なんですけどね

 話がちょっとずれちゃいました。ごめんなさい。まっ、そんなことで、「人の想いは、どうもすんごいぞ~」と思うようになっていったんですね。かと言って、「そうか。願いにブレがなければかなうのか…。よし! しっかりやり方を守って、強い想いで願いを書こう」と思った、そこのあなた。それはちょっと違うみたい(と最近思う)。あんまり、しゃくし定規に構えて、青筋立てながら間違えないように…とかいう感じで書くのは、逆に願いがかなうのを遠ざけてしまうみたいですよ。

 ある方の書かれたものに、「人の想いは強すぎる」というのがありました。その強い想いが、逆にいろんなことの邪魔をするのだ、と…。それを読んだとき、「ああ。なるほどね」と思ったんです。私の経験でも、何かがうまくいくときって、決まって鼻歌でも出てくるくらいの軽い感じというか、全然真面目でも深刻でもなくて、とにかく、ワクワクしていたなぁと思い出したからです。肩に力が入ってるってことは、かなわないと思っているとは言わないまでも、相当に型にはまってしまってないですかね。ということは、そこから新たな現実に飛び出すことはできない。「よしっ、書っくぞ~! かっ、なえるぞっ~♪」くらいの感じでちょうどいいもかもしれないですね。それはあなた、おまじないもそうでしょ。だから、そう言ったんです。

 

では、そんな気持ちで新月の願いを書いてもらえるように、次の記事で、私が知る限りのだけど、そのポイントを付け加えますね…。