由緒も知らず…。誰かも知らず…。

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 ある旅番組で京都旅行の特集を見ていた母に言われたんです。「大体、あんたいろいろ調べすぎなんじゃない? あんまり調べない方がおもしろいんじゃないの?」って…。

 京都には、昔から家族で時々出かけています。父が亡くなってからは、もっぱら「hikariツーリスト」状態で、出かけるときはいつも、母の「コレが見たい」、「どこに行きたい」、「あれが食べたい」を、あまり疲れさせることなく何とか叶える旅にと、あれこれ調べたり、調整したりするんですね。

 たとえば、桜が見たいというのであれば、桜の名所を探し、いいかなと思ったのがどこかの神社だったら、その神社への行き方の中でいちばん楽で効率のいいのを見つけ、さらに、そこの歴史から特徴などを相当頭に入れて、母が興味があるだろうと思えることをセレクトしてガイドさながらに説明。いい時間になっていれば、そのあたりのおいしいお食事どころへ連れていったり、甘味どころを探したり…。そんな感じの準備をするんです。

 それをあなた、調べ過ぎっていわれたら…

  …とはいうものの、よく考えたら、その場所の詳しい話など、本人はそう知りたいと思ってないのかもしれません。でも、「へぇ~」とか「わぁ、そうかぁ」って、本人そこそこ驚いたり楽しんだりしでるじゃないかぁ

 まっ、どっからでもこい状態の知識を、選びながらでも詳しく教えてもらってうれしいのは、「どっかの好きなメガネ小僧さん(小僧?)」くらいかもしれませんね…(小僧さん、ガイドいつでも貸出しです。ただし言葉は、ごくわずかなら英語をまぜてもいいけど、基本日本語。それが嫌なら、テレパシーとやらで理解してもらうということで…と、めちゃくちゃなことを言う)。

 実は、この頃そう思わないではなかったんです。去年母の病気平癒のお願いをしたところにお礼参りにいったついでに行った、日御碕神社や、八重垣神社や由志園など、ほとんど何にも調べてないところが、予想外におもしろかった…というか興味深かったんですよね。で、あとで調べてみて、「へ~~。そういうことか…」と感動。本で仕入れた詳しい由緒より、自分の五感で感じるものの方が、ずっとおもしろいことを探しあてるということなのかもしれません。

 話は少しずれますが、ずいぶん前にここでお話ししたことがありました。頑張るうちに、友達や楽しいことから離れてしまった、子育てや老育てを終えたぐらいの年配の方たち(特に女性)が、旅慣れていなくても、さらに一人でも、京都を訪ね、何の心配もなく行ってみたいところを訪ねることができるようなガイドブック(その方と、そこでよもやま話をする感じの書き方でね)を作りたい。それが私の夢の一つなんですよね。

 だから、そのことについても思ったんです。(知ってしまってることは仕方ないとして)最初たいした予備知識もなく訪ねてみて、気に行ったら、帰ってそこのことをあれこれ調べ、また新たに足を運んでみる。そうして書いた方がいいかも。その方が、ずっと楽しいガイドブックになるかもしれないなって…。

 
 ちょうど、「考えることは、心を縛り、制限を設けるもの。無意識にはそれがない」と、「あれこれ仕入れないことの力」の話を読んだばかりでした。そこで感じること…。それが、そこへのさらなるあこがれになり、知りたいという力になる…。うん。その方がやっぱり面白そう。

 そういえば「あの子」も、どこの人かどころか、名前さえ知らずに心が見つけた人でした…。

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