神宮を出て2時間あまり後、私は宇治山田駅にあるベンチに座っていました。私が乗る京都行き近鉄特急まで、もう少し時間がありました。
門前町の賑わいのおかげ横丁で、夏だけ限定の赤福氷(基本は宇治。ただし、その中には氷に合わせても硬くならないようにしてある赤福もちが入っています)や、伊勢うどん(ぶっとくてやわらかいうどんに、伊勢しょうゆという甘辛い系のおしょうゆがかかっています)を食べたり、10センチほどの招き猫一対(片方は右手上げ、もう片方は左手上げ。これを対で置くと、入ってきた幸運をつかんで逃さないそうな)と、がんこな生産者さんが育てている100年もののお茶の木から採ったという「自然茶」を買って、五十鈴川を臨む和風カフェで休憩したりした後のことです。
私は、そのベンチで今回の旅を振り返っていました。この暑さがなければ、内宮はもうちょっといられたなと思ったりしますが、まっ、それはそれ。食べてみたいと思っている「手ごね寿司」とともに、次回に譲りましょう。とてもやさしい快い風の吹く中で、それぞれの神前におまいりできた、内宮外宮については、今回はそれでよしとしようと思います。
土地柄から毎年行く出雲大社も、「祈りの人」を多く見る神社です。でも、今回訪ねた神宮で会った、真摯で熱心な若い人の姿は新鮮でした。いえ。出雲大社で会う人達が真摯でも熱心でもないというわけではありません。ただ、もっとラフな感じがします。鳥居の前できちんと足をそろえて、一礼する若い人の姿までは見られないのが普通です。ずべての人ではないにしろ、うまい表現ではないかもしれないけれど、ここでは本気が見える姿をたくさん見ました。神宮とは、そういう祈りの場所なのですね。
人の想いが集まれば集まるほど、そこは強い力を持つ場所になります。こんなに真摯な想いが集まる場所なら、さらにです。「腹を据えたたくさんの想い」が訪れるわけですから、他を打ち負かすような神風はともかく、よきものを守る風ぐらいは起こせるかもしれません^^。
一時、祈るということは、自分でそれを解決しようとせず、想いを他力に預けることじゃないかと思った頃がありました。でも、いつからか思うようになったんです。神前に向かって、自分の心をまっすぐに立てる事が祈りなのではないかって…。
今回行った猿瑠姫神社のご利益に、「たましずめ」と「たまふり」というのがあるんですね。「たましずめ」とは、ふらつく魂をしっかり体に収め、自分の目的を果たすエネルギーを十分使える状態にする事を言い、「たまふり」とは、よどんでいる魂を振り起こして、生き生きと活動できるようにすることを言うんですって。祈りって、それじゃないですかね…。それこそが、祈りの姿勢…っていうか。偶然の事故のように願いを聞き届けていただけることもあるかもしれないけれど、祈りの姿勢が整って、初めて願いがかなえられる自分になるんじゃないかって、そんなことを考えていたんです。ざわめく人達の中で…。
(写真ひだりから、赤福氷、おかげ横丁での一枚、宇治山田駅とホーム、買った自然茶と招き猫です。この猫が、お互いの手を合わせて、パコッと幸運をつかむ様を想像してににやっとし、思わず買ってしまった…^^;)
※画像はあとで順番を入れ替えるかもしれません。