『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

‪伊勢神宮ヨン百物語(表札?の名前は、ただ「神宮」)

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「アマテラスオオミカミ」を主祭神とする伊勢神宮は、内宮・下宮をはじめとして、125の神社の集合体なのだそうです(知ってましたか? 私は全然知りませんでした…^^;)。伊勢市全体の面積の1/5~1/4を占めるという伊勢神宮がその形になったのは明治以降のことだそうですが、その歴史は約2000年前にさかのぼります。

当時疫病が流行したり、世の中が乱れたりということがあって、どうしたらいいだろうかと、時の天皇は神にお伺いを立てました。神様いわく、「そうねぇ。アマテラスさんのご神体を、どっかいいとこに移してみたら?」(もちろん、そんななラフ話し方ではないでしょうけど)。

天皇はそれを聞いて、すぐさま自分の娘を祭祀の代理人として立て、奈良県の方にアマテラスさんの神鏡を移させたのですが、この代理人というのが、伊勢の神に仕える「斎宮」の始まりになるようです。前に記事で書きましたが、嵯峨野の野々宮は、その斎宮に選ばれた姫が、伊勢に上がる前にまず身を清めるところだったんですね(書庫「うろうろ京都」の‘11年10月8日の記事「ご利益神社」を見てみてくださるとわかりやすいかもしれません)。

さて、それで世は治まったのか…ですが、神鏡を移してはみたものの、思うような結果が出なかったのでしょう。この天皇の娘さんの姪である倭姫(ヤマトヒメ)を代理人の後継にすえて、さらに新しい場所を探させることになります。そして、いくつかの場所を経て倭姫がその場所にと選んだのが、この伊勢だったんですね。何故そこを選んだか…というのには、もろもろの理由があったようですが、お訪ねして手を合わせる私たちには、「そういうありがたい所なんだ~」ってことでよいのではないかと思うので、カット!

伊勢神宮があるのは、もともとは人里はなれた所でした。遠くから足を運ぶのには大変なところだったわけですが、交通機関の発達などにより、鎌倉時代からはお伊勢参りが一般的になってきます。さらに、「御師(「普通〔おし〕と読むけれど、伊勢神宮だけは〔おんし〕と読む)」と呼ばれる参拝者の世話をした神職さんたちが、伊勢信仰を広めて回ったこともあり、「一生に一度は伊勢参り」と言われた江戸時代には、年間20~40万人が参拝していたとか(書庫「まったり旅日記」の‘12年1月6日の「おかげ犬」に参考記事があります)。そして、始まりから2000年の時を経ても、深い信仰が続いているところ。それが伊勢神宮なんですね。

そうそう。今の形になったのは、明治以降だと最初に書きました。話は少しずれますが、実は今日本中にある「何々神宮」という名前のほとんどは、明治時代以降に付いたものなんだそうですよ。つまり江戸時代までは、神宮といえばほぼこの伊勢神宮を指したんです。そのためか、はたまた日本で一番古く、由緒のあるベストオブ神社だからなのか、さらには八百万の神々のトップに君臨する「アマテラスオオミカミ」をお祀りする神社だからなのかわかりませんが、この伊勢神宮は、正式名をただ「神宮」と言うそうです。

その明治以前、一般にも許されていた御神前での参拝を許されない人達がありました。お坊さんや尼さん、そして頭を丸めた人は、ご神前に近づくことさえ許されなかったらしいんです。

そのため、内宮参拝のときの御手洗場のある五十鈴川越しに、遠く御正殿を拝見出来るようにした、「僧尼拝所」というのがあったんですって。「…ということは、明治以前なら、松○千春さんとかつるべさんなんかは、ご神前でお参りしたくても出来なかったということ? あっ。『自然剃り込み』の人は違うのかしらね」…などと余計なことを考えつつ、とりあえずの神宮歴史概略は終わるのでした。

さて。それではいよいよ最初の扉を開けることにします。