『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

御利益神社(ちよっと変な言い方?)

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 京都の某神社が、ある一部の(?)人たちにえらく興味をもたれれた(いや。そこにいたらしい人に、か?)昨日でした(といえば、わかる人にはわかりますよね^^)。

ちょっと水をさすような話なのですが、その神社で御利益があるという「縁結び」、実は私はずっと怪しいと思っているんです。

私がそう思うのは、実はそのお宮の成り立ちにあります。そのお宮は、伊勢神宮の神に仕える斎宮となるために、出所正しきお姫様達が、俗世を離れ、伊勢神宮に上がるまで身を清めるためにこもったところなんですね。

その選ばれ方というのは余りに理不尽で、この人はどうだろうとか人選をするわけではなくて、占いのようなもので、この方向に家がある娘…的な選ばれ方。

それも、断ることはできないんです。たとえば、明日結婚式だとか、もう結婚式が近い…とか、愛し合っている人がいる…なんて人でも容赦なしで、言い方は悪いけれど、引き裂かれ、「放り込まれて」しまうんです。

斎宮として赴く期間は、半年くらいの人もいれば(これくらいならまだましですが)、10数年以上に及ぶ人もあったそうです(その期間も自分で選べず、政の都合によった)。人生50年と織田信長が詠ったのよりもっと前の時代で10数年と言えば、今の20年以上であることは間違いありませんよね。それくらいの長い期間になるかもしれないとなれば、例え愛し合っている人がいなくても、つらいことには違いありません。

そんな人たちが潔斎する場所が縁結びの場所と言われても、「私が結ばれなかった分、あなたたちを幸せにして上げましょう」という気が流れているようには思えなかったんです(もしかしたら、たとえば自分が良く行く場所で言えば、出雲大社辺りのように、背中を押されるような気持ち良さは感じなかった…ということもあったかもしれません)。

そんなことを思ったので、あるとき知り合いの古典の先生に、そのことをお尋ねしたんですね。そのときは、「ちょっと私には…」とおっしゃったのですが、後日その先生から、丁寧なお手紙が帰ってきたんです。

「君がああ言っていたんで、そのあたりには門外漢の私もすこし調べてはみたが、その縁起にそういう由緒は見かけられなかった。たとえば、玉の輿で有名な○○神社だと、その近くの八百屋の娘の誰それが、こういうことでこんな玉の輿に乗ったことから、そう言われるようになったとかいう、真偽のわからない話がひとつくらいはあるものだが、ここにはそれが一切ないようだ。
恋を引き裂かれた若い女性の想いが、人の幸せをかなえる気となれるかどうか、そのあたりは、女心のわからない朴念仁と家内に言われ続け、すでに爺と成り果てた自分には判断できないが、それ以外の部分では、縁結びの御利益は怪しいと思うという君の意見に私は一票を投じる。それにしても、とんでもないことに興味を持つものだ」という、苦笑いされているようなことばで終わる内容でしたが…^^;。

それに力を得たからか、その御利益は怪しいと私は今でも思っているわけです。それでも、そこで願って恋がかなったという人もいるんですよね。

思うに、それはその人が真に願い、真に御利益があると信じたからではないかと思うんです。「神様じゃなく、あなたがかなえたんだよ」ってことです。

もしかしたら、パワースポットと言われるところや、気の強い神社でも(言い方変ですか?)、疑いながら訪ねたのでは、何の効果もないのかもしれません。そういう場所でも、本当に純粋に信じた人だけが願いをかなえることができるということなのかも。さて、かの方はどうだったんでしょうね。何かを願ったのでしょうか…。




(どこかにあったはずのこの神社の写真。どこを探してもありません。逃げられたか…ーー;)