『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

アカシックレコード3(そして起こってくる疑問)

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 台風9号は、熱帯て気圧になったようですが、あちこちで雨の被害が出ているようですね。皆さんのところは大丈夫でしたか? 

 さて、アカシックレコードの話の続きです。すでにご存知の方は問題ないかもしれませんが、これまで聞いたことのなかった方は、ここまでですでに疑問がわいてきていることと思います。

 「そんなの、おかしな宗教みたいに、最近誰かが突然言い始めたことじゃないのか」とか、「そういうのがあるとして、どういう役に立つんだ」とか…(「どうしたら見られる?」ってのは、今は却下です…^^;)。その疑問の助けになるかしら、と思えることを少しだけお話してみようと思います。今日は、まず最初の方から。

 二つの意味で使われると書いたのの最初の方、全体を指すアカシックレコードの別名の「アカシャ」という言葉は、6~7世紀の仏教の経典にすでに登場していたようです。ということは、それ以前からその考え方を知り、使っていた人がいたということになります。

 アカシックレコードを読むというのは、「特別の人」だからできるのではなく、誰でもできることだといいます。ですから、最初は誰もが自分で読んでいたのかもしれません。それをいつからか、「特別な人」でないと扱えない、見られないもの…という先入観を、「誰か」が植えつけてしまったというんですね。

 それは、自らの力を守り、誇示し、人々の心を掌握しようとした為政者達かもしれませんし、権力を持つ一部の宗教や占いを生業とする人たちだったかもしれない。とにかく、それによって、本来は自分で読めるはずのアカシックレコードを、人々が自分で読まなくなったどころか、そういう力が自分にあるとさえ思わなくなったのだ、と。

 それだけではないかもしれないと私は思います。「電灯の明かりが、妖怪たちを見えなくしてしまった」と水木しげる先生がおっしゃっていたように、文明というのの影響もあるのではないか、と思うんですよね。いろんなものが発達していく中で、心がなおざりにされてきたという背景もあるように思えます。

 考えてみると、あらゆる便利な生活手段を持ち、下手をすると朝と夜が逆転した生活さえしている人もある、現代の私達では、星を眺め、鳥や獅子や乙女の姿に見立てたり、それで吉凶を占う…なんて発想はできないかもしれないですね。