3日前、衝撃的な死のニュースを目にしました。悪い冗談だろうと思いたいその出来事は、それが本当だと身にしみて思うころには、心にとんでもないさざなみを立て、時間がたつごとに、哀しさと淋しさと腹立たしさを連れてきています。
こんなことに出会うと、いつも思い出す言葉があります。以前どこかで少しお話したことがあるかもしれないけれど、いま改めて…。
「同じ死」を迎えた中学の頃の友達がいました。みずから灯油をかぶって…という点では、彼女の方がある意味壮絶だったかもしれません。遺書もないのに、噂は噂を呼び、彼女が男遊びの末に…などという実体もない悪意をもったものまで、まことしやかにささやかれる始末…。
最後に彼女が接触したのが私だったため、中学の頃の担任の先生が、「そんなことはない。何か事情があるはず」と、友達伝いに話を聞きたいといってこられましたが、私に答えられることといえばー。
体育の時間以外には走ることもしなかった彼女が、別の高校に進んだ私を駅で見かけたからと、走って追いかけてきた、ということと、普段はいつもするどさを秘めた彼女の目がとても優しくて、私の毎日や「男友達はいるのか?(彼女らしい言い方)」ととたずねてきたくらい…(結局、何のことはない毎日で、彼なんかいないよ~という話をしただけでしたし)。
そんなことは絶対にありえないと、あの時は意味もなく思ったけれど、その本当の理由はわからなくても、彼女の話さえ出なくなった今では、それは絶対にないと断言できます。
たぶん彼女は性同一障害だっただろうと思うからです。卒業式前、「先生が卒業式には僕(彼女は自分をそう呼んでいた)にスカートをはけって言うんだ! スカートなんか死んでもはきたくない。いやだ…。どうしてもいやだ。どうしたらいい?」と、泣きながらつかんできた手の強さにおどろいたことがありました。私にどうしろといえるわけもなく、結局彼女は、卒業式の一日をスカートで過ごしたのです。
私は幼すぎて気づけなかったけれど、思い当たることは、実はほかにいくつもあったのです。そんなことを思うと、彼女が男遊びの果てに…はありえない。それはスカートを履く以上の屈辱だろうと思えるからです。あえて挑戦してみる人もあるでしょうが、彼女はそのタイプではなかったと思います。
人の噂はいい加減なもの…。私はこういうとき、原因を詮索しなくなりました。わかったからといって、どうしようもない。その人は、どんなに帰ってきてほしくても、もう帰ってこないのですから…。
今はそう思えるけれど、彼女が最後に会ったのが私…と聞いたときから、それに何故気づけなかったか、やめさせることはできなかったかと、私は自分を責めていました。時がたって、同じ彼女の友達にそれを話したとき、言われたのがこの言葉です。
「本気で覚悟した人の死を、他人が変えられるなんて思いあがらない方がいい」
それを発したのは、障害をもった友達でした。毅然としたその声に、飛び上がらんくらいにびっくりしたのを覚えています。
「誰が何て言ってあげても、だめなのよ。本気でそうしようと決めた人には…。それで思いなおせるなら、その人は元々死ぬ気がない人。助かりたい人…。助けを求めている人…。少なくとも私はそうだった。だから、ここにいる。家族や友達と生きてる…。それでよかったと思う」
面倒見がよくて、人が困っているとほっておけない、明るい彼女が歩いてきた道…。改めてそれを思い知らされた気がしました。
「だからね、あんたのせいじゃないの。わかる? あんたが自分を責め続けているなんて知ったら、あの世で泣くよ、彼女…。最後にあんたに会いたかったんだよ。それでいいじゃない…」
そういうこと…なんですよね?
今度のことが、どういうことでだったのか、誰にもわからないことです。残念な想い、深い淋しさ…、何でよ! って想いはあるけれど、今は冥福を祈りながら、それにかかわってしまった人に自分を責めてほしくない、そう思っています。