『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

とどまる想い その2

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 一つ前の記事で、残存思念の話を書きました。誰かの強い想いが発生した場所に行くと、そういうものを感じやすいたちを持つ人間は、その影響を受けやすい…というんです。

 現存している土地で、太古から人が誰も踏んでいないところなどない…ということは、人の想いの残っていない場所などない、ということになります。海だった場所を埋め立てて、完全に新しい建物でも建てない限りは、この前のようなことがありえる…かもしれない。

 特に京都は、長らく都であり、人が集まり、勢力闘争の場となり、多くの戦いもあった場所ですから、そういうものが、余計に残りやすい。いえ。京都ばかりではなく、人が多く集まり、いろんな欲望や想いが渦巻く場所では、そうなのだそうです。感じるか感じないかの問題だけで…。

 先ほど、ちょっとコメントでも書いたのですが、自分ではそう気にしていないつもりだったけど、私はその、私にとっての騒音ホテルを、本の影響だけでなく無意識に避け、実は、以前から何度も家族で泊まったことがある、定宿ともいえる今回のホテルを選んだのかもしれません。そこでは、大丈夫だったという確かな経験があったわけですから。

 話は少しずれますが、私は子供の頃から、墓所というものが怖くないやつでした。だから、いろんな方が怖がられたり、忌み嫌われることが理解できなかったんです。この前の記事に書いた本の中に、「墓所ほど何度もお経があげられている安全な場所はない」と書かれていて、だよね~と思ったくらい。

 でも、今回そのホテルのバーゲン部屋として、初めての低い階に泊まり、窓の障子を開いて、目の前に何百という墓石が広がるのを見たときには、さすがにあ然としました(そのホテルはカーテンでなく、障子が使われています)。主にそちら側ではなく、反対側の部屋を利用していましたし、たまにこちら側に泊まったときも、高層階から見ている分には、お墓があるなという程度にしか感じていなかったんですよね。ところが、低層階ではその景色は違って見えました。「だから、バーゲンなんだ~」と納得したのですが、いつものように寝るまで障子を開いたままにしている気にはなれませんでした。だって、辺りの灯りに照らされる何百という墓石の風景は、いい風景だとはさすがに思えなかったんですもの…^^;。

 なんだかんだを片付け、さて寝ましょうと思ったとき、別のことで怖くなってきました。前回は母が一緒だったけれど、今回は一人。またあんなことが起こったらどうしよう、と…。壁が壊される音や、何かを引きずるような音、ドリルのような音、そして床がひどく揺れたりする中で、私はどうしていればいいんだろう、って…。思わず、見えない人に救いを求めたりして…。

 で、寝られなかったと思うでしょ? しっかり、すっきり寝ちゃいましたがな…。疲れもあったのだとは思うけど、どうなってるんでしょ。私の神経…。えっ? ああ。ええ、ええ。無事でしたとも…。たぶん…。