最近、京都の大原に行かれた方はあるでしょうか…。数年前放火で火事になった寂光院は今どんな風になってるのでしょう…。ひさしぶりに訪れてみたい気持ちになっています。
その火事の時、高齢の庵主様が、「形あるものは滅するもの。だから、焼けたものは仕方ない。でも、ここを楽しみに訪れてくださる方を悲しませることが辛い」というようなことをおっしゃっていました。
その…、なんていうんだろう。あるがままにそこに立ち、陣頭指揮に当たっていらっしゃる姿、そして、ものに執着しないというか、潔く、それでいて暖かな言葉にえらく感動したのをおぼえています。あの庵主様は今もご健在なのでしょうか。
この頃、ほんとうに愛する物、使う品物だけをそばに置いて、心が望む方向に向かってシンプルに進める暮らしをしたいと、真剣に(?)思っています。
色々あわただしかった上に、そんな想いもあって、かなりの模様替えもやっているので、やたら疲れ果てた5月だったのですが、片付けながら、「いつか使うかも~」とか、「これは何々の時の~」とか、実はこの先そう必要でもなさそうな物を捨てるのに迷う時、ふとその庵主様の言葉を思いだすんですよね。そして、その言葉に直接は関係ないのに、唐突に思うんです。「執着」と「愛情」は違うのよね…って…。
執着で捨てられないのか、大切だから捨てられないのか…。これがポイントなんでしょうね。そういえば、「1年使わないものは、たぶん永久に使わない」って、名言を吐いた人もいたな~。当たってるかも~。