『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

わらちゃんのいる場所~ほんとうの清盛さんとは…~

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kiyonorizou


  昨日の記事からの続きです。

 それでは、Wikipediaもどきで、清盛さんのプロフィールを少し紐解いていきましょう。

 平清盛。1118年2月10日生まれ(誕生日が私と一緒! まっ、旧暦だろうけど)。同年生まれに、歌人である西行がいる。

 今の三重県津市生まれ(京都市だという説もある)。平家の頭領であった平忠盛の息子というのが定説だが、長男が跡取りとなる時代に長男でない清盛がなぜか後継者に指名されたこと、そして、異例の出世スピードから、実父は忠盛を重用していた白河院で、母は白河院の寵愛を受けていた祇園女御という女性(あるいは、その妹)ではないかという説もある(「説もある」ばっかりだな)。


 ※それと関連してですが、幼少の清盛は夜泣きがひどかっそうで、白河院は、「夜泣きがひどくても、大事に育ててほしい」という内容の歌を忠盛に送っているそうな。自分の子供でもないはずなのにね~。ふ~ん。


 1129年。12歳で従五位下という誰もがあこがれるという地位に就く。これには、実父かと噂される人の影響も考えられるが、そういうこととは関係なく、父忠盛が頭領である平家が、武力はもちろん、経済的にも朝廷を支えており、当時横行していた海賊の征伐などの働きに応えるため、朝廷側が次の頭領に指名されている清盛を出世させた…とも考えられる。はっきりわかっていることは、彼が異例の出世を遂げているということである。

 1159年に起きた平治の乱後、武士として初めての太政大臣に任命される(この一年前に、例の像を見つけたんでしたね)。そして、平家の絶頂期に。そのあと、清盛だけでなく平家の多くの者たちも朝廷に重用され、平家にあらずんば…というあの言葉のような状態に至る。同時に、物語ではあることないこと、清盛さんの悪行を伝えられることになる。

 その後の、世の中によく伝えられていることをば~っと端折って、1181年、清盛、熱病にて死去。


【清盛の性質】

①人を動かす絶大な力を持っていた
 ただし、強引に自分の思う方に全体を動かして行くというのではなく、なぜか(平家の)ほとんどが彼にくっついてくるという形になった。

②予想外に、人を思いやるタイプ?
・清盛は、そのころの高い地位にあった者の多くのように、自分より目下の者や使用人を見下したり罵倒したりすることは、少なくとも相手が傷つくような場所ではけしてしなかった。

・その時代は、船の行き来のために湾を開いたりするとき、「人柱」をたてるのが常識だったが、清盛はそれをせず、経石を海に沈めることに換えた(人柱を使うことをよしとしなかったということですかね)。

・そして、よく知られている頼朝や義経の助命のこと
 その時代は、敵となった者の男子はすべて処刑が一般的。世に伝えられているように、二人の母親が「自分が側室になるからと助命を嘆願した」とか、彼の継母である人に、「夫の面影に似ている頼朝をどうぞ助けて」と言われたとかいう背景があったとしても、革新的な政策をとりつつも、清盛は平家で唯一敵となったオジを、泣く泣く処刑している。そういう「筋」を通した人でもある(想像だけど、もしかしたら、子供たちを助けるにあたっては、「敵であった人」への特別な想いがあったのかもしれないと思ったりして…)。

・物事を合理的に考え、これまで誰もやったことのないことでも始められる人だった
 これまでの政策から歩を進め、日宋貿易を推進させ、貨幣経済を日本で最初に導入し発展させたのも、天皇にいちばんちかい場所で政治に参加する太政大臣に武士として初めて就き、そのあとの武士に道を開いたのも清盛。


 これは私の感じ方ですが、上の顔色をうかがい、事なきように動いているばかりだったとも言われるお公家さんたちから見たら、革新的に動いて上に上がっていく彼は脅威だったろうし、疎ましかったりねたましかったりしたんじゃないかと思うんですよね(にっくったらしい奴って感じ?)。

 平家を倒して実権を握った源氏にとっても、それは同じ。敗者である平家の、それも清盛の功績などは、残してはおきたくなかったかも。

 多分「平家物語」は、どちらかによる「物語」だったのだろうと思えます。そうなると、彼、清盛さんがド悪人のように描かれているのは当たり前。善人だったとは言わないけど、これまで清盛という人から受けていたイメージは、やっぱり間違っていたのかもしれませんね(若一神社に行ったら、一度はストラップを見てみようかな…おいおい)。

 そしてこのお話は、やっと次で終わりになります。