『光と風の間(はざま)で』総本家

総本家なんで、あれこれあります

「かねもち」じゃなく、「かもち」ですから~後編~

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 前記事の続きです。

さて、金持神社とは、どういう由緒を持つ神社なのか


 ホームページによると、この神社は弘仁元年(810年)に、出雲国の妙見宮(現・長浜神社)から分祀されたものなんだそうです(そのときは、こちらも「妙見宮」という名前でした)。とはいうものの、「創立年代は不明」とも書かれているので、それまでに小さなお社か何かはあったのかもしれません)。

 その弘仁元年は伊勢の神宮の遷宮にあたり、出雲の方の妙見宮の新官の息子さんも、伊勢に赴くことになったというんですね。

 その息子さん、お社の前にあった石を道中安全のお守りとして持って出かけたんだそうですが、途中、この金持の妙見宮の前まできたときに、お守りとして持って来たその石がとんでもなく重くなり、たまりかねてその場に置いたまま伊勢に。

 ところが、ちょうどその石が置いていかれたあとのこと。現宮司さんの祖先である方の夢に宮づくりをせよと言う夢のお告げがあったというんです。そんなわけで、そこに残されたその石を、この金持の里の氏神様として崇め奉った…と書かれています。それまでに何かの小さなお社があったとしても、このあたりがここの神社としての本格的な始まりということになるのかもしれません。

 …ということは、この神社にはそこを起点としても、1200年以上の歴史があることになります。なかなかに古い神社なんですね。 

 また、この地の豪族金持大和守景藤というひとは、流されていた隠岐を脱出してこられた後醍醐天皇が鳥取県中部(西部より)にある船上山(せんじょうざん)で旗揚げされたとき、この神社に必勝祈願をして船上山に駆け付けて華々しい活躍をしたし、後醍醐天皇の上洛のおりに、天皇もこの神社で「聖運萬安」の祈願(こう言う言葉があるんですね~。知りませんでした。知らなくても、その字で祈願の内容が何となくはわかりますが…)をされて上洛されたと言われている…なんて逸話もあったりするよう。

 主祭神は、「アメノトコタチノミコト」と「ヤツカミズオミズヌンオミコト」、そして、「イミズヌノノミコト」(三柱を合わせて、三体妙見というらしい)。

 くにびき神話にかかわる神様方です。開運の神様と言われるようですが、金運…。まっ、それも開運の一つですよね~。宮司さんは願いを届けてくださっているようですし、生きてる人たちの強い想いが押し上げたご利益なのかもしれません。この前も書いたけど、たくさん集まった人の想いが「何か」を動かすことはあるものですよね。

 ここでは、古くなった財布の供養もしてくださるらしいです(年に何度かお焚き上げされる)。これ、かなり惹かれました。財布をごみとしてだすのに抵抗があったんですよね。少し奥まったところにあるようですが、一度お財布持って行ってみようかな。で、真摯にお祈りしてみよう…。

 ところで、このホームページの言葉の中に、引っ掛かった言葉が二つあったんです。一つは、妙見宮。もう一つは、元は妙見宮と言う名前だったという、出雲の長浜神社。

 妙見信仰…。これも実は、今年になってどっかで何度か見かけたような気がします。そして長浜神社ー。不勉強で、出雲神話に関係する神社だったっけ? という程度の知識しかなく…。でも、どっかで…。

 そして思い出しました。母の医大での術後の検診のあと、何度か泊まった旅館に置いてあったいろんな名所旧跡のパンフレット。その中にあって、何となく持って帰って来ていたんです、長浜神社のパンフレット。思いがけないことでした。



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(次記事に続く)